桜ノ書感



 あいつはあの日、なにを話していた?
 なにを見て、なにを感じていた?
 どんな顔をしていた?
 どんな声音で、その言葉を言ったんだ?
 俺には、それを知る術(すべ)がない。
 この手をすり抜けていった、唯一の女。
 …………それきり、俺の時間は止まったままだ。


 桜の花が満開だった。デュナン湖からの風がさわさわと枝をゆらし、花びらが舞い落ちる。花びらは満月の光を弾き、えもいわれぬ風情を醸し出す。
 梁山(リアンシャン)城にこんな立派な桜の木があるとは、誰も知らなかった。かつて、ノースウィンドゥと呼ばれたこの地の出身のビクトールさえ、こんな木があったか、と首をひねっていたほど。だが、こんな見事な花を楽しまない無粋者は、此処にはいない。ハイランドと膠着状態が続いていたのも幸いして、先日、城をあげて花見をしたところだった。
 いつもなら、4階のテラスか屋上で月見酒をするフリックだが、今夜は散りだした桜の木の下で、名残酒と洒落こんだ。花びらの絨毯に腰を下ろし、グラスを傾ける。
 桜の花も満月も、唯一人と決めた女のことを思い出させる。
 フリックは襟許から、服の下に隠しているネックレスを引っぱり出した。赤い石が二つゆれる。かつてイヤリングだったのを、ペンダントトップに加工したものだ。
 赤い石をフリックは月光にかざした。確か、ルビーだと言っていただろうか。


独上江楼思渺然
(ただ独り、大江に望んだ高楼に登ると、想いが果てしなく広がる)


「私の家に、古くから伝わるイヤリングなの」
 オデッサはそう言って、フリックにイヤリングを見せた。
 二人きりの旅の途中、目的の村に辿りつくことができず、野宿をする羽目になった。街道を外れた森の中に、ポツンと一本だけあった山桜を見つけたのはオデッサだ。
「ちょうど満月の夜に夜桜を見られるなんて、私たちラッキーね」
 そう言って、オデッサは子供のようにはしゃいでいた。
 満開の桜の木の下で野宿をすることにして、さてどういう経過でイヤリングの話になったのかはもう思い出せない。
「高そうな石だな」
 素直な感想を述べただけなのに、オデッサは不満そうに頬を膨らませた。
「もう、フリックってば、どうしてそんなロマンの欠片もないことを言うの?」
「本当のことだろ」
 呆れたように溜め息が返された。
「………そうね、高いと思うわ。ルビーだから」
 フリックからイヤリングを返してもらって、オデッサはそれを大事そうに見つめた。
「変よね………。貴族の地位も家も、なにもかも捨ててきたはずなのに、このイヤリングだけはどうしても手放せなかった………」
「オデッサ……」
 しんみりとした声音に、フリックはオデッサの顔を覗きこんだが、顔を上げた彼女は笑っていた。
「ルビーはね、女性から愛する騎士に贈られる宝石なんだって」
「ふ~ん」
 気のない返事をしたフリックの胸を、ポカッとオデッサは叩いた。
「なんだよ、オデッサ」
「もっと他に言うことないの? 本当に、フリックったら………」
 むくれるオデッサをなだめるように、フリックはその華奢な肩を抱いた。
「悪かったな、気の利かない男で」
「そういう意味じゃなくて」
 逃れようとするオデッサをしっかり抱きこんで、フリックはささやく。
「その石は、お前が持っていてくれ」
「フリック………」
 動きを止めて、オデッサはフリックの顔を見上げた。
「お前が先頭に立って戦っているのに、護りの石を俺に渡すことはないさ」
「…………」
 言葉もなく見つめるオデッサに、不敵に笑いかける。
「それに、イヤリングなんか男が持ってたってしょうがないだろ……?」
 オデッサの柳眉がつり上がった。
「もう、フリック……!」
 文句を言うオデッサの口を、強引に唇でふさぐ。抗議するかのように、オデッサはフリックの胸を叩いた。だが、そんなことでフリックがゆらごうはずもない。やがて、オデッサの腕はフリックの首にからみついた。
 桜の花びらをまとった泡雪の肌も、冴え冴えとした月の光を浴びてなお熱く零れる吐息も、すべてがこの腕の中にあった。


月光如水水連天
(月光は水のように澄みわたり、川は天へ続くように流れていく)


 だが、フリックに残されたのは、哀しい言葉とこのイヤリングだけだった。たったそれだけで、どうして女の存在が無くなったことを認められただろう。衝撃と怒りに駆られて、リーダーの証としてイヤリングを託された少年を傷つけた。彼もまた、あの戦いの被害者であるというのに。
 戦いも大詰めにさしかかってきた頃、少年はイヤリングをフリックに渡した。
「…………これを、返しておくよ。オデッサは、本当は、お前に渡して欲しい、と言いたかったんだと思う……」
「ルキア………」
 いつのまにか、フリックの心を虜にした少年は、哀しそうに笑っていた。
「この戦いが終わったら、俺のことは八つ裂きにしてくれてかまわない。みんなのためにも、俺自身のためにも、いまは投げ出すわけにはいかないから、戦いが終わるまでは待っていてくれないか」
「ルキア……!」
 はらはらと涙を流す少年を、フリックは抱きしめた。
「オデッサを死なせたのは俺だ………」
「違う! お前のせいじゃない……! 紋章なんかなくても、オデッサは同じことをしていたんだ。絶対に、お前のせいじゃない!」
 そう、すべては護ることができなかった、己の不覚。決して、この少年のせいでも、まして紋章などという不可解な力のせいでもない。


同来翫月人何処
(ともに此処で月を眺めたあの人は、いま何処にいるのか)


 フリックは桜の幹に背を預けた。桜の花越しに月を眺めていると、視界が次第にぼやけてきた。涙が頬をつたう。
 まずいな、と理性が思ったときにはもう遅かった。自分の不甲斐なさやどうすることもできない廻りあわせに、怒りと後悔が心をズタズタに切り刻んでいく。
 パリンッ……!
 手にしていたグラスが握りしめた力に耐えきれず、音をたてて割れた。素手だったので、破片でざっくりと手を切ってしまう。その痛みで正気に戻れないかとフリックの理性が思ったのは、ほんの一瞬のこと。痛みと血の赤さは、逆に理性を消し飛ばし、さらなる狂気にフリックを誘いこんだ。

 何故一緒に行かなかったんだどうしてアジトを護りきれなかったんだどうしてオデッサたちと合流しなかったんだ何故オデッサを探しに行かなかったんだ何故どうして何故どうして何故どうしてどうしてどうして………

 何故、俺だけが生きている?

 ドクドクと血が流れる手を投げ出して、フリックは茫然とすわっていた。その視界に、桜の花も月の光も映っているのかどうか……。
 ざわり、と嫌な風が花びらを巻き上げる。
 霞むフリックの視界に、人影が映った。風に長い髪が乱されて、手には背を越す長さのロッドのようなものを持っている。
『行きましょう………』
 何処かで見たことのある人影は、何処かで聞いたことのある声でそう言った。
 返事をするのも億劫なフリックは、目を閉じそのまま意識を手放した。人影はそれを見届けると、手の得物を振り上げる。その先についた大鎌が、月光にギラリと閃いた。
 まさに振り下ろされようとしたその瞬間、禍々しい色の光が影に向かって放たれた。
『……!』
 寸前のところで、人影は光の届かない場所まで音もたてずに後退する。禍々しい光も、それと同時に消えた。
「この城に、お前の獲物はいない」
 いつのまにか、フリックの傍らにはルキアが立っていた。
私に喰われたくなくば、去れ」
 右手を突き出し、傲然とルキアはそう告げた。人影は、萎縮したかのようにその形を崩し、渦を巻いて吸いこまれるように消えてしまった。
 大きく溜め息を吐いて、ルキアは手を下ろした。そして、後ろを振り返る。
「あんなのが出入り自由なんて、怠慢すぎるんじゃないのか、星辰剣」
 怒りをこめた言葉の先に、剣が宙に浮いていた。夜の領域に棲む者を司る“夜の紋章”の化身、銘を星辰剣。
「その男の未熟さを、私のせいにしてもらっては困るな、“生死を統べる者”」
 星辰剣は鼻で笑う。
「現にこうして、私は見まわりをしている」
「どうだか……。いまのはすごく危なかったじゃないか。ただでさえ此処は、“夜”も“月”もあって、ゴクウの不完全な紋章だけじゃ、バランス執りきれないっていうのに……」
「もう一度言うが、アレを呼びこんだのはその男の脆さだ、“生死を統べる者”よ」
 苛立つルキアを遮って、星辰剣は同じことを別の言葉で繰り返す。
「…………わかってるよ……。でも、頼むから、私をそうやって呼ぶのは止めてくれ」
 星辰剣はルキアを凝視した。あの時、『私』と言ったのは、無意識のことだったのだろうか。
 星辰剣は沈黙する。そんなことは、どうでも良いことだ。
「そいつになにを言っても無駄だよ、ルキア」
 フリックの隣には、ルックが膝をついていた。まだ血の止まらない右手を持ち上げて、グラスの破片を丁寧に取り除いている。そうだったな、と溜め息を吐いて、ルキアもルックを手伝った。
「破片はもうなさそうだな」
 血も止まりつつある。ルキアは包帯代わりにしようと、自分のバンダナに手を伸ばした。
「こんなの、“癒しの風”ですぐに治せるよ」
 ルキアを押しとどめて、ルックは呪文を唱えた。ルックの指先から紡がれた風は、みるみるうちにフリックの手の傷を癒していく。
「……どうしたんだ、ルック?」
 普段、自分から行動したことのないルックが、フリックの傷の具合を診て、さらに“癒しの風”まで唱えてくれるなんて。
「………良いだろ、別に……」
 そっぽを向いてルックは立ち上がる。
 理由は至極、簡単なこと。ルキアのバンダナを汚したくなかったから。泣き顔は見たくなかったから。
「それより、どうするのさ、こいつ。言っておくけど、僕はもうこれ以上はなにもしないからね」
 いつものルックの言葉に、ルキアは苦笑する。
「良いよ、もう少ししたら起こして、自分で歩いてもらうから」
「相棒はどうしたのさ」
 ルックは星辰剣を振り返る。
「さてな。今宵は誰の部屋にしけこんでおるのやら」
 苛立たしそうに、ルックは舌打ちした。どいつもこいつも、肝心なときに役に立たない。
「此処はもう心配ないだろう。私は他を見てくる」
 怒りの矛先が自分に向く前に、さっさと星辰剣は消えてしまった。
 二人は星辰剣のいなくなった空間を見つめて、同時に溜め息を吐く。顔を見あわせて、先に口を開いたのはルキアだった。
「ごめん、ルック」
 ルキアは申し訳なさそうに謝った。今日はルックといるつもりでいたのに、こんな状態のフリックのそばを離れるわけにはいかない。
 こうなるとはわかっていたが、ルックは溜め息を止められなかった。
「………良いよ。名残の花に満月だからね、嫌な予感はしてたし」
 でも、このまま引き下がるのも癪に障る。だから、意地悪くつけ足した。
「もちろん、倍にして返してくれるんだよね」
 ルキアの笑顔がひきつる。
「……努力します……」
「じゃあ、許してあげるよ」
 指先に紡いだ風でルキアの唇に触れると、ルックは転移して行ってしまった。
 ルキアは軽く息を吐いて、フリックの隣にすわり直した。そして、そっとフリックの頭を自分の胸に抱えこむ。フリックの呼吸が落ち着いているのを確認して、今度は安堵の溜め息が零れる。
 フリックの胸許に光る見覚えのある宝石。そして涙のあと。彼がなにを想っていたのか、手に取るようにわかる。だからこそ、放っておくことはできなかった。
 ルキアは二つの赤い石を握りしめる。
「頼む、フリックを護ってくれ………」
 万感の想いをこめて、そう願う。
「う……うぅ……ん」
「……フリック……?」
 フリックの意識が戻った。
「……? ルキアか……?」
「うん」
 フリックは顔を仰のかせて、ルキアを見つめた。
「こんなところで寝たら、風邪ひくよ」
 努めて明るい声でルキアは言ったが、フリックは血のこびりついた右手を見て、ある程度のことを思い出した。
「また、やっちまったか………」
 低く呟くと、自嘲の笑みが出る。
「……フリック、部屋へ戻ろう……」
 抱えこんでいた手を、フリックの肩において、ルキアは促した。だが、フリックはルキアの胸に頭を預けたままだ。
「もう少し、このままで良いか……?」
「…………。うん、わかった……」
 ルキアはまたフリックを抱えこんだ。その腕の温もりに、フリックは胸の痛みが消えていくのを実感する。
 桜の花も満月も、唯一人の女を思い出させる。その切なさだけは、どうにもできないけれど。
「………桜は、潔すぎるね………」
「あぁ……そうだな………」
 二人は、いつまでも、散りゆく花を眺め続けていた。


風景依稀似去年
(この景色は昔そのままにあるのに、あなただけが此処にいないなんて)
END





 まじゅ様のサイトでとっても素敵な桜の素材をいただいてきたので、それを使った話を書きたくなって急遽、書き上げた話です。月色に彩られた桜(〃∇〃)
 作中、引用した漢詩は趙嘏(ちょうか)作の『江楼書感(こうろうノしょかん)』という七言絶句。ブログに書き下し文を載せてますので、良ければそちらもどうぞ(2011.4.7記事 語る。その4)。
 この詩に出会ったのはまだ学生の頃でしたが、久しぶりに覚書を引っ張り出して読んでみると、もうフリックにあつらえたとしか思えませんでした(爆)

 フリックの私的イメージは『ちょいとつつけばガラガラと崩れてしまう、ある意味、激危険人物』デス(;'-')
 にしても、暗すぎたか、な・・・? いかがしたでしょうか??
 今回はさすがにオマケもナシです。
 “月”と“桜”ときたら、“狂気”を真っ先に思い浮かべる私は、やはり何処かおかしいのかも知れません(爆)