紋章に魅入られた子供たち 外伝
月を見つけた少年
或いは、月の娘と闇の守り人 篇
月の綺麗な夜だった。
ただ、この賑やかな街中ではその光も稀薄になってしまう。宿屋や酒場が建ち並ぶ道は、これから一日の疲れを癒そうとする人々で混雑していた。
「……さて、今日こそは、ふかふかのベッドで休みたいんだけどな……」
目深にかぶったフードの端から、目星をつけた宿屋の看板を見上げて、少年が独り言ちた。
「オイ、坊主、邪魔だ」
「ぼぉっとしてんじゃねぇ!」
宿屋から厳つい男たちが出てきた。
「……すみません」
少年は慌てて脇に寄って道をあける。心中、悪態を吐きまくって、ちらりと男たちを見ると、そこにとても似つかわしくないものを見つけて目を瞠った。
男たちに取り囲まれるように、黒い服の少女がいた。服のおかげでさらに際立つ、上質の白磁器のような白い肌。彫刻家が全身全霊をこめて彫り上げたかのように、整った顔立ち。真っ直ぐに流れる長い白銀の髪。
(………月だ…………)
茫然とそう思った。
少女は男たちに囲まれて、人混みに飲まれていく。道行く人に押されて、少年は我に返った。
(…………俺には関係ないさ)
そう、揉め事なんか、金がもらえたっていらない。長い、気の遠くなるほど永い逃亡生活を強いられているのに、どうして進んで揉め事に首を突っこまなくちゃならないんだ、と宿屋へ足を運ぼうとする。
が、その足はピクリとも動かなかった。さっきの少女の顔が、脳裏に焼きついて離れない。
(世間知らずのお嬢様がどうなろうと、俺の知った事じゃないだろうが……!)
自分にそう言い聞かせても、ますます少女の顔が鮮明になるばかり。
「……あぁ、まったく……!」
ガシガシッと髪を掻きむしった拍子に、フードが落ちた。露わになった栗色の髪。まだあどけなさの残る少年の顔。ただ、その瞳に宿る見かけにそぐわぬ諦観を、どれだけの人が気づくことができるだろう。
少年は、宿屋から踵を返して駆けだした。さっきの男たちの姿はもう見えなかったが、あれだけ胡散臭そうな連中なら、方向さえ読み違えなければすぐに見つけられる。
人通りの激しい大通りからたった一本、横道に入っただけだというのに、そこは喧噪から切り離されたまったく別の世界だった。わだかまる静寂と闇。もれ聞こえてくる人の声も何処か虚ろで、紛い物のよう。
すっかり慣れている闇の気配に軽く眉をひそめ、少女の連れて行かれた方角を探す。
(……!)
凝らした意識に、いきなり人では有り得ない力の気配が触れた。少年は走り出す。
さらに細い路地に入ると、そこは袋小路で、先ほどどやしつけてきた男が膝をついて背中を向けていた。
「……?」
暗がりに目を凝らせば、他の仲間たちが地べたに転がっている。その中に少女の姿を探していた少年は、再び膝立ちになっていた男に目を向けて息を飲んだ。
少女は男の肩に手を置いて、首筋に顔を埋めていた。やがて顔を上げ、男の耳許にささやく。
「忘却(レーテ)」
男は糸の切れた操り人形のように、ドサリと崩れ落ちた。冷ややかにそれを見下ろした少女の口からは、長く伸びた犬歯が覗いていた。
「背に腹は代えられぬとはいえ、こうも不味くては話にならぬ」
その時代錯誤な言葉が少女の口から出たものだとわかるまで、少年には瞬き何回分かの時間が必要だった。
「おんしもわらわの好みではあらぬが、こ奴らよりはマシであろ」
ひたと、ピジョンブラッドの瞳に射抜かれて、却って少年は自分を取り戻すことができた。
忘れられようはずもない。最も嫌うその瞳の色を。
「お前、吸血鬼か!?」
わき上がるどす黒い感情のままの声にも、少女はびくともしなかった。
「ほぉ……。少しは物を知っておるようじゃな。なれど、非力な人の身で、わらわから逃げられはせぬぞ」
見かけの年齢では、決して刻まれることのないその達観した物腰。
(……俺より、年上かな……)
少年にも同じ気配がまとわりついていることに、すこぶる機嫌の悪い少女は気づかないようだった。
少女は転がる男たちを平然と踏みつけて、少年に近づいてきた。獲物の次の行動を見極めるために、ゆっくりと。
身を焦がすほどの憎しみが、いまにもこの忌まわしい右手から迸ろうとしているのに、少年は少女の傲慢な姿に見惚れた。
「どうした……? 身体が竦んで動けぬのか?」
月の光を紡いでできたような髪が、サラサラと肩を滑っていった。自嘲の笑みを浮かべて少年は首を振ると、少女の動きを牽制するように右手を真っ直ぐに伸ばした。訝るように眉をひそめて、少女は歩みを止める。
この世のどんなものより綺麗だろうと、少女は吸血鬼だ。その憎い吸血鬼に見惚れる自分の愚かさ加減に腹が立つ。彼女を吸血鬼にした奴に腹が立つ。
「あんたを悪漢から助けるつもりであとを追ってきたっていうのに、俺が大っ嫌いな吸血鬼だったなんてなぁ……」
少年の呟きに、少女は眉をひそめたまま返す。
「運が悪かったの」
少年の自嘲の笑みがさらに濃くなった。
「お互いに、な」
「……!?」
突然、爆発的な勢いで広がった負の力に、少女は飛び退った。
「おんし、まさか……!」
驚愕の表情で見つめる少女に、少年は右手を軽く振った。
「闇属性はあんたには効かないだろうけど、この紋章は別だ。ただの吸血鬼を消滅させるくらいならできる」
今度は、少年がゆっくりと歩を進めた。驚愕から冷め切らぬまま、少女は後退った。やがて、その背中に壁が当たる。
「…………まさか、おんしが“生死を統べる者”だとはの。わらわにも気づかせぬとは、大した隠れ上手じゃ」
手袋に隠された右手に宿る紋章の名を、少女はズバリと言い当てた。ただ、やはり少年も憎しみに駆られていて、その意味に気がつかない。
「…………。俺の一族は、ずっとこいつを隠してきたんだ。………あの女が来るまでは……!」
憎悪に燃える少年の瞳を、少女は羨ましそうに見つめた。少年は思わず、たじろいでしまう。
人としての感情を持てることがどれだけの羨望に値するか、彼にはわかるまい、と少女は内心でそっと息を吐く。
「……おんしの過去は興味深いが、消え行くわらわには聞いても無駄なことであろ。さぁ、その呪われた紋章を解放するが良い。確かにそ奴なら、偽りの生を歩むわらわを殺すことができよう」
「い、言われなくとも……!」
少年は紋章の力を起動する。夜の闇よりなお冥い炎が、少女を取り囲んだ。
己を焼き尽くす炎に、少女は微笑んだ。待ち焦がれた恋人にやっと逢えたかのように。
(……な、なんで、笑えるんだよ……!)
またしても少女に見惚れてしまった少年は、拳を握りしめた。
止めてくれ…………
「……?」
少年の意識に、なにかが触れた。
頼む、“生死を統べる者”………
凄く遠くから、懇願する声が、意識に触れる。少年は炎に巻かれている少女を見るが、すぐに声の質が違うことに気づいた。
私の娘を、殺さないでおくれ
「……! ………まさか……彼女が、本当の継承者……なのか……?」
右手が淡い光を発すると、炎が弾け飛んで消えた。
「ちょ、ちょっと待てよ……!」
自分の意志に反して力を収めてしまった紋章を睨みつけるが、最早なんの反応も示さない。少年は途方に暮れたように少女を見下ろした。
すでに気を失っていて倒れた少女の身体は、ところどころ焼け爛れている。それでも、普通ならこんな程度の火傷ではすまなかっただろう。
「本当にあの声が“光を映す者”で、あんたが“月の娘”だって言うなら………」
少女を抱きかかえ袋小路から出ると、彼女の全身に月の光が当たるように路地に横たえた。
答えは、すぐに出た。
月光に触れた端から、少女の火傷は瞬く間に治っていく。再生されているのではない。火傷をする前の状態に戻っていくのである。
「…………」
少年は盛大に溜め息を吐いて、少女の傍らにしゃがみこんでしまった。
「………俺にどうしろって言うんだよ………」
初めて出逢ったときと寸分変わらぬ少女の顔を見つめて、少年は諦めた。
(………でも、きっと、こいつは自分がまだ生きているとわかったら、怒るだろうなぁ………)
あの笑顔が、脳裏に焼きついて離れない。
よいしょ、と少女を背負って、少年は先ほどの大通りへ向かって歩き出した。
少しの間とはいえ、紋章の力を使ってしまった少年は、夜が明けると早々に街をあとにした。追跡者たちは、こと闇の力に関しては鼻が利く。いつもなら夜のうちに発っているところだったが、少女のことが気になって、一泊してしまった。
少女は結局、目を覚まさなかった。恐らく、今日の日暮れまではあのまま眠り続けるのだろう。
(………女の服って、どうしてあんなに高いんだろうなぁ………)
トホホ、と少年は懐を押さえる。
少女はあの宿屋に部屋を取っていたのだが、少年は自分の部屋を確保できず、勝手にソファに寝かせてもらうことにした。その謝礼も兼ねて、焼け焦げた少女の服の代わりを苦労して買ってきたのだが、却って高くついた気がしてならない。
(名前も、聞き損ねるし………)
重くなってきた足取りに、少年は頬を叩いて活を入れた。
真っ直ぐ前を見つめて、再び歩き出す。
(忘れられっこないんだから、それで良いさ)
日も暮れてきて、少年は野宿の準備を始めた。
火を熾し、運良く狩ることができた野兎を感謝していただく。歩き通しで疲れた身体を投げだして、睡魔に誘われるままに眠りに落ちようとしたその時。
急速に近づく気配に身体を起こした。
隠れる時間もないと判断して、弓矢を構える。だが、狙いをつける間もなく、目の前に白い大きなものが迫った。
「うわっ……!?」
凄まじい殺気に、咄嗟に弓で急所を庇う。
ガキィッン……!
鋼同士がぶつかったような音とともに、弓を支える両手に負荷がかかった。
「おんし、どういうつもりじゃ!?」
「……あんた……!」
吸血鬼の少女が首筋目がけて振り下ろそうとした長く鋭い爪を、弓で押し返して少年は間合いから飛び退った。
「………服のお礼にしちゃあ、物騒すぎるんじゃないのか」
寸前、殺されそうになったにもかかわらず、焚き火に照らし出された白いワンピース姿を上から下まで観察して、少年がまず思ったのは、「サイズがピッタリで良かった」だった。
「ふざけるでない……! わらわは殺してくれと頼んだはずぞ!」
「…………。言ったろ。ただの吸血鬼なら殺せるって。でも、“月の紋章”の継承者では、こいつでも荷が勝ちすぎるんだよ」
手袋に隠された右手を示されて、少女の怒りは急激に醒めていった。
この世を創世したといわれる“27の真の紋章”。その一つ、“月の紋章”を宿す少女。その一つ、“生と死を司る紋章”を宿す少年。
(………出来過ぎた話だ……)
急激に感情を失っていく少女の顔を、少年はなんだか哀しい気持ちで見つめた。
「…………わらわは、また、死に損なったのか………」
「また……?」
力無くすわりこんだ少女に、少年はそっと近づいた。
「………半月ほど前の新月の晩、わらわの胸に杭が打ちこまれた………」
「……よく、無事で………」
「そのまま燃やしてしまえば良かったものを、あの男はご丁寧に埋葬してくれおった」
「……この辺は、火葬の習慣がないから、しょうがないんじゃ………」
「そ奴、ヴァンパイアハンターを名乗ったのじゃぞ」
「…………」
隣りに腰を下ろした少年も、さすがに呆れて言葉が出てこない。
「急所から外れていたこともあって、先日の満月が、わらわの傷を瞬く間に治してしまった。………腹立ち紛れに血を吸ってやったわ」
「……でも、殺しちゃいないんだろ」
少女は押し黙る。
「昨夜の男たちも、貧血おこしたくらいで、死んじゃいなかったもんな」
「あまりの間抜けさ加減に、殺す気も失せただけじゃ」
少女の頬がほんのり赤く見えたのは、焚き火のせいだけではないだろう。
少年には、そのヴァンパイアハンターの気持ちもなんとなく理解できた。この美しい少女を躊躇うことなく燃やすことができる者は、そういまい。
少女の口から、そっと吐息が零れた。
「…………仲間だと思っていた男に、“月の紋章”を盗まれたわらわも、人のことは言えぬがの」
少年の脳裏に、つらく忌まわしい記憶が浮かぶ。
燃える村。高笑いする異界の男。憎しみで自らの身を灼く女。そして、偽りの永遠に酔っていた男。
「…………ネクロード……」
「おんしも、知っておるのか!?」
「………『も』って……?」
「……間抜けな男が、それでもヴァンパイアハンターを続けておるのは、ネクロードに妻を奪われたからだそうじゃ………」
「そっか………。俺は奴とその仲間から逃げてるところなんだ」
少女は自嘲気味に笑った。
「やはり、わらわを殺しておいたほうが良かったのではないかえ……? わらわの失態がなければ、おんしの一族は無事であったやもしれぬ」
「それはないな。ネクロードは、ウィンディっていう女の手下になってる。あいつがいなくたって、ウィンディに俺の村を襲う理由がなくなるわけじゃない。…………それに、結構、俺も永く生きててさ。あんたの罪を簡単に帳消しにしてやるほど、甘くもないわけよ」
「…………。まだ、わらわに生きろ、と……? 輪廻を逸脱した偽りの生なぞ、おんしには許し難かろうに、“生死を統べる者”よ」
「それもまた、そなたの生なれば………」
勝手に声を借りられて、少年は顰めっ面をして右手を睨みつけた。少女はその言葉に、きつく目を閉じ、拳を握りしめる。慌てて、少年は謝った。
「悪い。いつもはがんじがらめに封じてあるんだが、あんたがこいつの名前を呼ぶから、勝手にしゃしゃり出てきちゃってさ」
「…………いや、そ奴の言うとおりじゃ。………七百年、堪えてきた。この先も、堪えられるであろ………」
年季の入りが違うとは思っていたが、想像を絶するその年月に、少年は絶句する。
「……どうした……? おんしもそれなりに永く生きているのであろ」
「………そのつもりだったけど、俺なんかまだまだだったんだって思ってさ。二百年越えたくらいで、あんたに説教なんかして、申し訳なくなってきた」
少女はやんわりと笑う。
「ふふ、恐れ入ったかえ?」
「恐れ入りました」
大袈裟に頭を下げる少年に、少女は可笑しそうに笑う。
「………良かった」
「……?」
「そんなに綺麗なんだからさ、絶対、笑ったら可愛いだろうなって思ってたんだ」
「恥ずかし気もなく、よくも言う」
呆れたように少女が返せば、少年はちょっと残念そうに頬をかいた。
「あれ、口説き文句だったのに、失敗……?」
「………生憎、言われ慣れておるのでな」
「そっか、そうだよなぁ……」
少年はガッカリと肩を落とす。
「まぁ、服のセンスは悪くなかったの」
白いワンピースに目をやって付け足すように言うと、案の定、少年は思いっきり嬉しそうに笑った。
「ヘヘ、なかなか良いだろ。見つけるの、苦労したんだぜ」
(………ほんに、表情のよく変わる………)
では、この台詞ではどうだろう、と少女は意地悪く言ってみる。
「これで血が飲めれば、文句ナシじゃな」
「う……」
「焼き殺されそうになった上に、此処まで飛んできて、力を使いすぎた。こんなか弱い細腕で、あの狡猾な男を追わねばならぬわらわを、飢え死にさせるようなことはするまいな……?」
(飢え死にだけは絶対にないんじゃないかなぁ)
そう思いつつも、わざとらしく泣き真似なんかする少女を見て、少年は諦めたように溜め息を吐いた。
血を吸われるのはイヤだが、少女を消滅させられなかったのだから、そう要求されても仕方ない。
「俺、逃亡の身の上だから、できれば控え目にお願いしたいんだけど」
「なに、心配するでない。わらわはコップ一杯分も飲めれば充分じゃ」
嬉々として顔を上げた少女に、どう考えても高くついた気がしてならない少年。
「…………わかった、血はやるよ。でも、一つだけ条件がある」
「なんじゃ?」
「名前、教えてくれ」
少女はいままでで一等、可愛い笑顔を見せてくれた。
首筋にからみつく腕。その華奢な身体を支えるように、少年は少女の腰に腕をまわして、自分の名前をささやいた。それに答えるように、少女も名前を告げ、少年の首筋に唇をあてた。
日の出とともに、少年は身支度を整えると、野宿の痕跡を完璧に消した。
「手慣れておるの」
手伝うつもりは毛頭なく、幹にもたれてすわったまま、少女は眠たそうに言った。
「二百年も同じことしてればな」
荷物も手際よくまとめて、少年は少女の前にしゃがみこんだ。
「じゃあ、俺、行くよ……」
「あぁ………」
目的が対極にある二人。出逢えた偶然を喜び、また別々の道を行かなくてはならない。
「あのさ、もう一つ、お願いがあるんだけど」
「……なんじゃ?」
「“月の紋章”を取り返したら、俺に教えてくれないか」
「…………。わざわざおんしの所まで来い、と……?」
「うん。………それでさ、それから、一緒に旅をするってのはどうだ?」
呆れたように眼を眇めて見やれば、思いのほか少年の表情は真剣だった。
「俺の、一生のお願い」
「…………考えておく」
約束したつもりではないのに、少年はとびきりの笑顔で笑った。
「俺、待ってるからな」
「わらわは、考えておく、と言っただけじゃ」
「だから、俺、待ってる。あんたの考えが、俺の願いを叶えてくれるようになること」
少女は言葉に詰まる。
そんな表情も可愛くて、少年は愛おしく頬に触れて口づけを落とした。
名残惜しく唇は離れたが、互いに浮かんだ表情は笑顔だけ。
「またな」
「……わらわの気が向いたらな」
少年は背を向けたまま手を振った。その背中が見えなくなるまで、少女は見送った。

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