Cherry Panic
少しずつ日射しが強くなってきた、ある日の昼下がり。
エミリアは、トレイを持って司書室へ戻ってきた。
「テンプルトン、お茶にしましょう」
大机に散らかった書類を脇に退けて、トレイにのせてきたティーセットを広げる。
本日のおやつ。ミルクたっぷりのダージリン、アーモンドクッキー、そして艶々と赤いさくらんぼ。
テンプルトンはじっと赤い実を見つめた。
「あ、それ、美味しそうでしょう。トニーさんの果樹園で採れたものよ。私、大好きなの。お菓子にするってハイ・ヨーさんは言ってたんだけど、頼んでわけてもらったの」
笑顔でエミリアは、さくらんぼを一つ口に入れた。
「あ………」
テンプルトンが声をあげたので、エミリアは首を傾げた。種を手のひらに受けてゴミ箱に捨てると、テンプルトンはにっこりと微笑んだ。
この笑顔は、一見、無邪気そうに見えてその実、一等質が悪いものであることをこれまでの経験でエミリアは学習している。思わず、エミリアは後退ってしまった。
「エミリア、さくらんぼ、食べたね。僕の目の前で」
テンプルトンはにっこり笑顔のまま、エミリアの目の前に立った。
「そ、それが……?」
さらに後退るエミリア。
「そういうこと、なんだよね」
さらに近づくテンプルトン。
「だから、どういうこと?」
エミリアの背中に壁があたる。
「わかってるくせに」
テンプルトンの手がのびてきて、エミリアは身体をすくめた。
「ひゃぁ……!」
苦手な脇腹に触れられて、エミリアは腰砕けてしまった。目線が同じになったところで、テンプルトンはエミリアに口づけた。
「……ん、ダメ……! 誰かきたら………」
テンプルトンの肩を押しやって、エミリアは顔を離したが、また腕を取られて唇をふさがれた。
利用者の最も多い午後の時間帯。いつ誰が、司書室までやってくるか知れたものではない。恥ずかしくてなんとか逃げようともがくのだが、テンプルトンはびくともしない。いつもなら、エミリアが嫌がればすぐに解放してくれるのに、今日は力づくで抑えこんでくる。
(どうして……?)
エミリアはテンプルトンの言葉を思い出していた。
(………あ……!)
急にエミリアの力が抜けたので、テンプルトンは顔を離してエミリアを見つめた。
「わかった?」
悪戯っぽく笑って訊くと、エミリアは首筋まで真っ赤になった。
「だ、だってあれは、アルコールに入ってるさくらんぼのことでしょう……!」
「さくらんぼはさくらんぼ。違いなんてないよね」
「違うわ」
悲鳴みたいに反対してもテンプルトンは何処吹く風で、またエミリアに深く口づけた。
思う存分、貪るようにキスをして、テンプルトンはささやく。
「ね、続き、しよ……?」
エミリアはとろけそうになる意識をかろうじて保っている。
「……ダ、ダメ……!」
顔を背けてエミリアは震える声で言った。テンプルトンは余裕の笑みで、エミリアの首筋から襟許へ手を滑らせた。
コンコンコン!
「エミリアさん、これ、教えてくれないか、な………」
軽快なノックの音と同時にドアが開いて、問題集片手にニナが入ってきた。
部屋の隅に縮こまっているエミリアと、その胸許に手をかけているテンプルトンを見て、ニナは腰に手をあてる。
「………なに、してるの」
エミリアがテンプルトンを突き飛ばして、逃げ出すように司書室を出ていった。
数瞬の沈黙のあと、テンプルトンは盛大に溜め息を吐いた。
「あともう少しだったのに………」
ニナは腰に手を当てたまま、目を眇める。
「私だって野暮はしたくなかったけど、あんなに目で助けてって訴えられちゃったら、馬に蹴られるようなことするしかないでしょ。………それに、君だって本気じゃなかったくせに………」
「あ、バレてた……?」
悪戯っぽく笑うテンプルトンに、今度はニナが溜め息を吐く。
「あんまり酷いことばっかりしてると、本気で嫌われちゃうわよ」
「だって、エミリアが無防備すぎるからいけないんじゃないか」
「………なにしたの?」
テンプルトンはちょっと考える仕草をした。
「…………此処で見たこと、口外しない?」
「失礼ね。私だって言って良いことと悪いことの区別ぐらいできるわよ」
「信用してるよ」
そう前置きして、テンプルトンはエミリアの『無防備な行動』を説明した。
聞き終わったニナの表情が、妙に輝いていた。
(また、変なこと、考えてるな………)
テンプルトンは胸のうちで、溜め息を吐いた。
「良いこと聞いちゃったぁ」
「一応、念を押しておくけど、お酒に入った飾りのさくらんぼのことだからね」
「わかってるって。………うふふ」
すっかりニヤけ顔のニナ。本当にわかってるのか、とテンプルトンは疑わしそうに見るが、自分に被害が及ばないことはわかりきっているのでそれ以上はなにも言わなかった。
「それじゃあね。………あ、ちゃんとエミリアさんには謝らなきゃダメよ」
「わかってるよ」
ニナが司書室を出ていくのを見送って、テンプルトンはさくらんぼを一つ頬張った。
(さて、どうしたら機嫌を直してくれるかなぁ……?)
レストランの厨房に女の子たちが殺到したのは、それからしばらくしてのこと。
ハイ・ヨーはチェリータルト作りを諦め、さくらんぼを女の子たちにわけてあげた。
紙ナプキンにくるんださくらんぼを持って、ニナはフリックを探した。
「あ、アンネリーちゃん。フリックさん、見なかった?」
通りかかったアンネリーをつかまえると、小さな声で返事か返ってきた。
「あ、あの、さっき、ステージにいたよ」
「ほんと!? ありがとう!」
ひらひらと手を振って、ニナは猛然と駆けだした。
ステージの入り口まで来て、ニナはピタリと止まる。いつも駆けてくる足音のせいで先に逃げられてしまっているのだ。今回だけは、どうしてもつかまえなくちゃ、とニナはそっと観客席を窺った。
(キャ〜、いた〜!)
フリックは、椅子にすわって考え事でもしているのだろうか、ぼんやりしていた。
(今日こそ、ちゃんと私を見てもらうんだから)
グッと拳を握りしめ、ニナは歩き出す。できるだけフリックの死角を通って近づいた。
「フリックさん」
「二、ニナ!? いつのまに……!?」
フリックは顔を青ざめさせて、腰を浮かした。だが、しっかりとニナに腕をつかまれてまた椅子へ引き戻される。
「フリックさん、今日はお仕事ないんですね。ぼんやりして、考え事でもしてたんですか?」
「あ、いや、まぁ………」
にこにこと満面の笑みのニナから、さてどうやって逃げようか、とフリックは頭をフル稼働させている。
「私、ハイ・ヨーさんからさくらんぼをもらったんです。一緒に食べませんか?」
「いや、俺はいいよ……」
はっきり言って、フリックはそれどころじゃない。
「えぇ〜、美味しいのに〜」
ちょっと拗ねて見せて、ニナはさくらんぼを差し出したまま、自分も一つ手に取った。
艶々と赤いさくらんぼ。その秘められた意味に、いつもより胸がドキドキする。
いつもと違って今日のニナはなんだかしおらしく、フリックは訝るように見つめた。ニナが、この世のどんな碧より青いと想っているその瞳で。
ニナの体温が急上昇した。
「……? おい、顔が真っ赤だぞ、熱でもあるんじゃないか?」
顔を覗きこまれて、ニナの顔はさらに赤くなる。
「今日はやけに大人しいと思ったが、風邪でもひいたのか?」
フリックは手袋を外して、片手をニナの額にあて、もう片方を自分の額にあてた。
(フリックさんの手が、私のおでこに……!!)
限界値突破。
ニナは首まで真っ赤になって倒れてしまった。
「おい、ニナ……!?」
慌ててフリックはニナを抱き起こすが、逆上せてしまってニナは目をまわしている。
「体調管理がなってないぞ」
呆れたように溜め息を吐いてフリックはニナを背負うと、医務室へと向かった。
その場に居合わせた全員が、それ以前の問題、とさらに呆れたように肩をすくめていたのは言うまでもない。
医務室のベッドでニナは目を覚ました。
「……此処……?」
「あ、ニナさん、気がついた?」
「トウタ君……? 私、どうしたんだっけ……?」
まだ頭がぼんやりしているニナに、トウタが説明する。
「フリックさんがニナさんを背負って来たときには、ビックリしたよ。ホウアン先生がすぐに目を覚ましますよって仰ったから、フリックさんも安心して午後の訓練に向かったようだけど」
「…………」
自分の失態に言葉もなく、ニナは視線を彷徨わせると、サイドテーブルにもらったさくらんぼが載っていた。
「トニーさんのさくらんぼだよね。フリックさんが一つ、もらっていったよ」
「………なんか、言ってた……?」
「え……? ……えっと、朝摘みはやっぱり美味いなって言ってたかな……」
ニナは恨めしそうにさくらんぼを見ると、ガバッとまたベッドに潜りこんでしまった。トウタは目を瞬いたが、ニナの声が微かに聞こえてきて、そっとしておくことにする。
「また逃げられちゃった……。口惜し〜い……!」
ニナ、いつものごとく完敗。
ビッキーはニナから押しつけられたさくらんぼを両手に持って、少し途方に暮れていた。
その時、ニナが教えてくれたことの意味がほとんど理解できなかったせいもある。一緒に食べるのかと思ったら、みんな、いそいそと行ってしまうし。
艶々と赤いさくらんぼ。
(少ししかないけど、一人で食べるのも勿体ないな)
ビッキーの足は自然と、いつもの場所へ向かった。
「ルック君」
いつのまにやら、『さん』付けから『君』付けに昇格。散々、口の端にのせてからかう連中を、ことごとく問答無用に切り裂いてきたルックは、この頃ようやくビッキーの呼ぶ声にも慣れてきた。
仏頂面を向けることで用件を訊いてきたルックに、ビッキーは両手に載ったさくらんぼを見せる。
「トニーさんの果樹園で採れたさくらんぼをもらったの。ルック君、午後の休憩まだだよね。一緒に、食べよ……?」
ルックは冷ややかにさくらんぼとビッキーを一瞥した。こういう視線のルックはたいてい、というかいつもだけど、否定の答えを返してくる。
そういう時のルックにはこうしてごらん、とルキアが悪戯っぽく笑いながら教えてくれたポーズを、先手必勝でビッキーはした。
斜め下から見上げる視線で、ちょっと首を傾げる。サラサラと、黒髪が肩から滑り落ちた。
ルキアの言うとおり、このポーズをして断られたことはいまだにない。
「…………」
ルックは盛大に溜め息を吐くと、努めてぶっきらぼうな声で言った。
「いつものとこで良い……?」
「うん……!」
満面の笑みで、ビッキーは頷いた。
湖を渡る風が、さわさわと枝葉をゆらす。デュナン湖の畔にある大樹の木陰に二人はすわった。
「ニナちゃんたちが言ってたんだけど、さくらんぼには秘密の合図があるんだって」
ルックと一緒にさくらんぼを頬張りながら、ビッキーは言った。
「秘密の合図……?」
「うん。……私にはよくわからなかったんだけど」
照れ笑いで誤魔化すビッキーを見ながら、ルックはどうせろくでもないことに決まっている、とニベもない。
「でも、赤い果物って、なんだか謎めいた印象があるんだ。……私だけかなぁ……?」
「……さぁね……」
「ルック君は……?」
「え……」
いきなり質問を振られて、ルックはちょっと考える。
「……そうだな。僕には挑発してるように見えるけど」
「挑発……?」
最後の一個を口に入れようとして動きを止めたビッキーに、ルックはさくらんぼごと口づけた。
赤い実を自分の口に含んで顔を離したルックは、平然とさくらんぼを食べてしまった。
「ごちそうさま」
「……!!??」
ビッキーは顔を真っ赤にして、言葉も出てこない。
ただ、心の片隅で、ニナたちの言ってたことはこういうことだったのかな、とようやく思い至る。
ビッキー、サヨナラ負け。
メグはさくらんぼを持って中庭を歩いていた。
ニナから話を聞いて、そのドキドキするシチュエーションにすっかり舞い上がってしまったのだけど、肝心の相手がいないんじゃあしょうがない、とちょっと熱が冷めた状態でそぞろ歩いていた。
一緒に食べてくれそうな友達がいないかと探していると、ドキドキのシチュエーションに思い浮かべた相手とバッタリ出くわしてしまった。
「やぁ、メグ」
「ルキアさん……」
ゴクウのお供から解放されたばかりのルキアは、メグの持っているさくらんぼに目を留めた。
「美味しそうなさくらんぼだな」
メグの心臓が跳ね上がる。
「あ、これ、トニーさんの果樹園で採れたやつで、わけてもらったんだ。ルキアさんも、食べる……?」
さくらんぼを一つ手にとって、ルキアに差し出す。
艶々と赤いさくらんぼ。ほんのり染まるメグの頬。
やがて、その訳に思い至ったルキアは、悪戯っ子みたいにキラキラする笑顔を浮かべていた。その変化に、メグは思わず身を退いた。
(ルキアさんのこの笑顔って、確か、一等、質が悪かったよね………)
もしかして藪蛇なことをしたんじゃ、とメグは踵を返す。
「やっぱ、いらないよね。そ、それじゃあ」
そそくさと逃げ出そうとしたメグの行く手を阻むように、ルキアは木の幹に手を伸ばした。
「……!」
メグは回れ右をして反対方向へ進もうとすると、そちら側もルキアの腕にふさがれる。
「ルキアさん……?」
背中には木の幹。両側にはその幹に手をついたルキアの腕。すぐ目の前にルキアの顔。
(な、なんでこんなことになっちゃったの〜!?)
メグ、大パニック状態。
ルキアはにっこりと笑って、手のひらから肘まで幹につけさらにメグに顔をよせる。二の腕の分しか距離がなくなって、メグの鼓動はさらに早くなった。
「ねぇ、メグ」
大好きな声が、メグの名前を呼んだ。
「……な、なに……?」
できるだけ身体を小さくしながら、それでもメグは気丈にも真っ直ぐにルキアを見返した。
「男は狡いから、くれるって言うものは後先考えずに強引にもらっちゃうんだ。だから、一時の熱に浮かされて無防備なことするんじゃないよ……?」
「わ、わかってるもん」
「そう……?」
ちょっとむくれたように言うメグに、ルキアは笑いながら首を傾げる。
「……もちろん、私にできることだったら、メグの願いはなんだって叶えてあげるけど」
「………本当……?」
うっとりと見上げるメグは、本当に可愛い。
「うん。メグが本気で、私の目の前でそのさくらんぼを食べてくれるなら」
かぁっと赤くなったメグの耳許に、ルキアは甘やかにささやいた。
「天にも昇る気持ちで、抱いてしまうから」
メグは照れくさいやら恥ずかしいやら、ルキアの顔をまともに見ることができなくなってしまう。身体を起こしたルキアは、メグの持っていたさくらんぼを口で取ると、にこりと笑って言った。
「ごちそうさま、メグ」
ルキアが行ってしまうと、メグはずるずるとへたりこんでしまった。まだ火照りがおさまらない顔を膝に埋める。
「ルキアさんのバカ〜」
メグ、撃沈。
夜も更けて、酒場にシエラがやってきた。カウンター席で、いつものワインを注文する。
しばらくして、レオナがコースターに置いたグラスにはカクテルが入っていた。
「なんじゃ、これは……?」
訝るシエラに、レオナはカウンターの端を目線で示す。
「あちらさんの奢り」
言われたほうを見やれば、ビクトールがグラスを軽く掲げていた。
「ふん……」
シエラはつれなく視線を外して、カクテルグラスを見る。
一番底には極わずかに赤いシロップ。続いて鮮やかなオレンジジュース。そして、無色透明な酒と、そこに浮かぶ艶々と赤いさくらんぼ。
「テキーラサンライズか………」
「あぁ。あんた用に、テキーラのオレンジジュース割りにしてくれって注文さ」
「………このさくらんぼは、いつものシロップ漬けではないのじゃな」
「そっちは、トニーの果樹園の朝摘みだよ。ハイ・ヨーんところで使うはずが、予定が変わったらしくてこっちにもまわしてくれたのさ」
「ふぅん……」
そういえば目が覚めた頃、少女たちがいつにも増して騒がしかったな、とシエラは思い出す。
「…………」
ビクトールの意図が分かって、シエラは紅唇に笑みをのせた。
グラスをゆるゆるとまわしながらビクトールを見ると、つまらなさそうに一人で水割りを飲みながら、それでもちらちらとシエラのほうを窺っていた。シエラは笑いを堪えることができない。
「ふふ、ほんに男というものは、いくつになっても子供じゃ」
シエラの呟きに、レオナは肩をすくめることで答え自分の仕事に戻った。
また笑われたらしい、とビクトールが頬をかいた。
(やっぱ、似合わねぇことはするもんじゃないな……)
自分の行動に照れくさくなってきたが、優雅なシエラの姿から目をそらすことなんて勿体なさ過ぎてできない。
ビクトールの視線を受けながら、シエラはカクテルをゆっくりと飲んだ。最後の一口になって、転がってきたさくらんぼを皓歯で止める。ビクトールの緊張した眼差しが、くすぐったくてたまらない。
(らしくないの、たかが酒の一杯でその気にされるなぞ……。………じゃが、まぁ、たまには良いか………)
シエラはビクトールを見つめて、さくらんぼを食べた。
柄と種を底に残ったシロップに落として、来たときと同じように、シエラはふらりと酒場を出ていった。
嬉しさとさらに心の奥で広がる愛おしさに相好を崩して、ビクトールはカウンターに酒代を置くとシエラのあとを追った。
シエラ、貫禄勝ち……?
口に出しては言えないから、赤い実を乙女たちは口にする。
眠るなら、あなたの腕の中が良いに決まっている。
END
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