落花流水



 シエラはデュナン湖へ向けて、グラスを掲げた。
 頭上の少し欠けた月は、湖面にもその姿を映し、昼とは違った明るさで世界を照らす。屋上からの眺めも悪くはないが、シエラは果樹園を背に臨むこの景色がお気に入りだった。
 デキャンタには、グラスランドはチシャクラン産の白ワイン。“太極の者”からせしめた逸品だ。贈られた樽には、『今年の初物ワインはいつも以上の出来だそうだ』とカードが添えてあった。
 不味いと言ったのを聞いたことはないが、美味しいと言うことも滅多にない嗜好の持ち主が選んだだけあって、その口当たりの良さはシエラを充分に満足させた。
 おそらくは己の比翼にも飲ませてやりたいのであろう。彼女の嗜好ともあうのは偶然ではあるまい。シエラも、彼女のことは自分の髪を扱わせるほどに気に入っているので、髪を編んでもらった礼にちゃんと振舞ってやった。
 湖面に映る月を肴に飲んでいると、人の気配が意識に触れた。城の方向へ目を向けると、カーンの姿が見えた。
「シエラ様……」
 散歩にでも来たのだろうか、シエラに気づいたカーンは驚いていた。
「散歩かえ?」
「えぇ、そんなところです」
 カーンは声の届く位置に立ち止まり、それ以上、近づこうとはしなかった。
「……シエラ様は、月見酒ですか?」
「あぁ、珍しい酒が手に入ったのでな」
 カーンが一定以上の距離から近づいてこないのを見越しての自慢だった。
「そうですか」
 案の定、頷きが返るだけ。これが熊なら、極上の酒をせびられるところだ。或いはデキャンタごと取ろうとするかもしれない。
 ふっと顔に乗った笑みに、カーンが首を傾げる。
「なんでもない」
 シエラは邪慳に手を振った。
 ふとシエラは思い出す。ルキアに対し、一定の距離を保ちながらもあふれんばかりの愛情を示していた紅の女将軍の存在を。カーンはシエラに対して同じように距離を取るが、内に持っている感情はまったく真逆の物だ。
(出会い方が最悪だったかのぉ)
 ヴァンパイアとヴァンパイアハンターとでは致し方ないことでもあり、シエラはさして気にも留めていないが、カーンはそれなりに気にしているようだ。
「…………。また、わらわに“封印の詩歌”を歌ってみるかえ?」
「……!」
 全身を緊張させるカーン。それをまるで挑発するかのように笑うシエラ。
「昔のことを持ち出さないでください。……反省しています、愚かなことをしたと」
「自分の無知をか?」
「あなたに杭を打ったこともです」
「ほぉ……」
 カーンと初めて会ったのは、彼がゴクウと同じくらいかそれよりも少し年下の頃だったろうか。シエラをただの吸血鬼と勘違いした彼は、杭を打ちつけた。急所を外しはしたが、左肩を貫かれた。痛みに動けなかったところを、カーンは“封印の詩歌”を歌ったのだった。ただの吸血鬼相手ならば、人が唱えても金縛りくらいの効果はあるだろう。だが、始祖であるシエラにはまったく無意味な行為でしかない。駆けつけた彼の父が間を取りなしてその場は収まったが、父の目を盗み、彼はギラギラと復讐に燃えた瞳で怨嗟の言葉を吐いた。
『お前が、蒼き月の村を作ったりしなければ……!』
 言葉は意志となって立ち現れ、シエラとカーンの間を隔てた。できた溝は、いまも埋まっていない。
「たとえ、あなたに“封印の詩歌”が効果あるものだとしても、“月”が私にそれを歌うことを許しはしないでしょう」
「復讐の相手を目の前から消したいのなら、相手を殺すか、自分を殺すしかあるまい」
 耐えるようにカーンは目を閉じる。やがて、口を開いた。
「…………。私は、あなたに復讐したかったわけではありません。ただ……どうにもならない怒りを、誰かにぶつけずにはいられなかっただけです………」
 それをわかっていても、なお、カーンはシエラに近づくことができないでいる。シエラは憐れむように見つめた。
「……おんしも難儀な性格じゃのぉ」
「…………。お邪魔しました。失礼します」
 話を打ち切って軽く礼をしたカーンに、鷹揚に頷いてシエラは応えた。
 カーンはもと来た道を引き返し、その気配はシエラの意識にも触れなくなった。

 静寂を取り戻し、どれくらいそうして一人で飲んでいただろうか。デキャンタの中味は残りわずかとなったが、月の位置は少し傾いた程度。今度は、背後から人の気配が近づいてきた。まとわりついている“夜”の気配に、誰が来たのかはすぐにわかった。
 ふと、己の胸の内にわき上がる感情に、シエラは不思議に思う。戸惑っているわけではない。ただ本当に、まだ自分の中にこんな感情があったのか、という不思議。顔に出すのはなんだか癪に障るので、見下ろされてもシエラは素知らぬ振りを通した。
「美味そうな物、飲んでんな」
 デキャンタをしっかりと抱えて、シエラは見上げた。
「おんしの口にはあうまいよ。新酒のワインじゃ」
「俺はなんだっていける口だ」
 隣にどかっと腰を下ろして、ビクトールは不満げに言った。無理にねだれば雷撃が飛んでくるのは承知しているので、触れられるほど近くによってはくるが、それ以上は無心してこない。その距離感が、なんとも心地良い。
 花綻ぶような笑みに、ビクトールは見惚れた。
「………なんじゃ?」
「……ん、綺麗だなぁって思ってよ」
「…………。聞き飽きた」
「良いじゃねぇか、褒めてるんだから」
 地に散る白銀の髪を一筋すくって、口づけを落とすのもいつものこと。熊がやっても様にならぬ、とからかったが、少し不服そうにしただけで止めることはなかった。
 胡乱げにビクトールを見やったあと、シエラは湖へ顔を戻した。ビクトールは気落ちした様子もなく、シエラと視界の端に映る湖面と、まるで一幅の絵のような景色を眺めた。
 ワインを飲みながら、シエラは思う。
 もし、ノースウィンドゥ村がネクロードに滅ぼされた直後にビクトールと出会っていたら。彼もきっと、怨嗟の言葉をぶつけたことだろう。
 この時に彼と出逢えたこと。
「……奇蹟を、信じたことはあるかえ?」
 思いは自然と口をついて出ていた。
「ん〜、そうだなぁ……」
 突然の問いに気にした様子もなく、ビクトールはシエラの髪を玩んだまま考える。
「信じているっていうよりは、あとになってそうだったのかなって思うことがあるくらいだな」
 ふっとなんとも遣る瀬無い笑み。
「あんなもんは、願っちゃ駄目だろ。振り返って思うくらいがちょうど良い………」
「…………そうじゃな……」
 では、この出逢いをそう想うことも許されるだろう。言葉にすることは許されなくても。
「…………わらわに……“封印の詩歌”を、歌ってみるか? ビクトール」
 訝しげな視線からわずかに目を伏せて逃れ、シエラはビクトールの答えを待った。
「お前にそんなもん歌ったって、意味ねぇだろ」
「おんしになら、できるであろ……」
「………どうしたんだよ、また死にたくなってんのか……?」
「…………そういうわけではない。あの言葉は、忘れておらぬ……。……ただ……」
「ただ……?」
 グラスを一息に空けて、シエラはビクトールを真っ直ぐに見つめた。
「わらわを殺す権利は、おんしにだけある。おんしが“夜の紋章”の守り人ということを除いても、な……。………だから、わらわを殺したくなったら、いつでも言うが良い。わらわは、おんしになら・・」
 言葉は途中で遮られた。グイッと力任せに髪を引っ張られて、痛いと声を上げる間さえなかった。乱暴に押しつけられた唇と舌が、口腔を蹂躙して、言葉まで貪り喰われたようだった。
「髪を引っ張ったことは謝らないぞ。お前が、火をつけたんだから。もっとまともな殺し文句はないのかよ………」
 間近で絡みあう視線を最初に引き剥がしたのはシエラだった。
「…………。八百年生きたわらわが、まともな言葉を覚えておると思うほうがどうかしておる………」
 ビクトールは盛大に溜め息を吐いた。
 シエラの口に残っていたワインを香りまで吸い尽くしたというのに、気づけばあたりに立ちこめているのは花の香り。その中心にいる“月”の愛娘は、望む者が目の前にあるのに、何故かそれに手を触れられないでいる。
(機嫌良く飲んでたところを、誰かに水でも差されたか……?)
 手に絡んだ髪をできるだけ優しく解き、ビクトールはシエラを抱きよせた。シエラは身体を預けるが、何故か抱き返すことが躊躇われた。罪深い己に、この場所はあまりにも居心地が良すぎる。
「だからさ、一言、こう言えば済む話だろ……」
 耳許にささやかれた一言。
愛してる
 シエラはきつくきつく目を閉じる。あやすように、優しく背を撫でてくれる大きな手。堪えきれなくなって、縋りつくように背に手をまわせば、しっかりと抱きかえしてくれる力強い腕。
「…………おんしに逢えて、良かった………」
 ビクトールはくすぐったそうに笑ったようだった。
 あとからあとからあふれる雫がおさまるまでずっと、シエラは心安らげるその場所にいた。
END





 前サイトキリ番『70000』をゲットされたみち様のリクエスト、『ビクトールとシエラのお話』でした。いかがでしたでしょうか?
 せっかく、『と』とリクしてくださったのに、思いっきり『×』変換(;'-') いあ、みち様もそのつもりだったと思ってます。うちでこの二人出したら、こうならないわけがないのです(開き直り)。

 前回アップした新刊で、「短すぎたのでリクはまた別で話を書きます」と言いましたが、これも大概短かった(爆)
 でもって、シエラのこの弱気っぷりは何事!? カーン、立場ない(≧△≦)
 ご、ごめんなさい・・・。
 カーンのイメージが某ゲオカーサイト様でインプリンティングされちゃって、ちょっと危ういとこあるデス、うちのカーンも(;'-') あのあと、ゲオルグのとこ行ったのかどうかまでは知りません(爆)
 『“太極の者”からせしめた』訳等は、また別の話(『軍学者の愛弟子』)。
 そういえば、この話の前にあたるヤツも、シエラが超弱気だった・・・。もはや、後の祭り・・・。
 終わりが別のヴァージョンをブログにアップしてますので、興味ある方はそちらもどうぞ。あっちは強気のシエラ様。で、これよりもさらにえっちぃ(;'-')

 例の言葉は、書かずにおこうかとも思ったんですが、でもやっぱ言って欲しいなって思ってしまったので書いてしまいました。そのまま載せるのは何故か照れくさくなって、色変えですが(^^;)
 たぶん、此処とあと一回くらいしかビクトールは言ってないんじゃないかなぁ。シエラも死に際に言ってあげるくらいじゃないかしら・・・。でも、互いが生殺与奪を握ってるってことは告白しあってる二人。やっぱビクシエってイイ(≧∇≦)♪

 ともあれ、未消化のリクエストがこれですべて書けました(*^_^*)

 追記。BGMは『Just Be Friends -piano.ver-』デス。凄く素敵な歌。Geroさんが歌ってる動画をリピート再生してずっと書いてました。・・・だから、シエラが弱気、とか無駄な言い訳してみる(爆)