紋章に魅入られた子供たち
視えざる者 篇
そこは、真白の部屋だった。
三メートル四方のガランとした部屋は調度品がなに一つなく、扉の真正面にある腰高の窓には、カーテンすら取りつけられていない。
ただ一つだけ。部屋の真ん中に、古びたゆりかごがあった。
ゆらす手もないそのゆりかごには、愛らしい顔立ちの赤ん坊が寝かしつけられている。紅葉のような小さな右手に包帯を巻かれ、上質の産着にくるまれた男の赤ちゃんだった。柔らかそうな金茶の髪は、絶えず何処からか吹く風にゆれ、大きな翡翠の瞳がとても印象的である。だが、その瞳は真白の天井を見つめているようで、なにも映してはおらず、虚ろで一切の感情に欠けており、この部屋の異質さをさらに強調していた。 奴隷女が食事や着替え、掃除に訪れる以外、おとなう者は誰一人としていなかったその部屋にある日、三人の人影があった。ただし、部屋の入り口付近に留まり、決してゆりかごには近づこうとはしない。
「やはり成長しておらぬか………」
三人とも同じ足許まで覆うローブに身を包み、さらに目深にかぶったフードのおかげで顔は口許しか見えない。
「“真の紋章”を宿して生まれるなど、本来有り得ないこと……。異常事態、あるいはなんらかの拒否反応を起こすだろうことは想定のうちだ」
「では、もう一つは……?」
「紋章を別の器に移したあちらは、人と同じように成長している。だが、魔力の系統から見て、絆は残されているようだ」
「ヒクサク様は、なんと? こちらも別の器を用意するか?」
「いや、それには及ばぬ、と。留めておくのが不可能な“風”がこの状態になったことは、却って都合が良い、と仰せだ」
「確かに………」
「この型を得るのにも四十年以上の年月を費やした。この器がこの先どう変化するのか、我らの代では見られぬのかも知れぬ」
「では、グラスランドとの約定の切れるときには、こちらの手駒は“土”のみか………」
「問題なかろう。あの地は火種に事欠かぬ」
「うむ、どうとでもなる。切り札を出す必要さえないかも知れん」
「そうだな」
現状維持の確認ができると、三人は部屋を出て行った。自分たちの言葉が“風”に記憶されたとは夢にも思わず。
だが、それを知ったところで、だからどうだというのだ、と彼らは言うのかも知れない。
結果、赤子は七年の歳月をその状態で過ごした。
「生きることに絶望してはなりません」
それは、赤子の聞いた久しぶりの言葉だった。
両目を固く閉ざした長い黒髪の女が、翡翠の瞳に映された。
「“視えざる者”とて、この状態にあることを願ってはいません。“風”に望まれた子よ、私の言うことがわかりますか? あなたの意志があれば、私は外界へと続く“入口”を開くことができます。決めてください、あなたの行く先を」
赤子はゆるゆると包帯の巻かれた右手を、表情の削げ落ちた女に向かって差し伸べた。
慣れない手つきで抱き上げられたあと、赤子が目にしたのは鬱蒼と茂る森だった。
赤子は七年間、真白の天井だけを見ていたわけではなかった。生まれながらにして右手に在った“風”は、唯一の窓から自由に外を廻り、『外』がどのようなところであるかを、そしてまた、己が持っていた記憶を示し、『世界』がどのようなものであるかを教えてくれた。
だが、『真実』の圧倒的な鮮やかさは、“風”が見せてくれていた映像とは比べ物にならない。本物の目に映る景色に、赤子の瞳は焦点を結んだ。
「此処は、いまは私の島です。あなたを閉じこめていた者たちも、此処までは追ってこられません。見えますか? あの塔が、あなたの住むところです」
女の腕の中で、赤子は不思議そうにそびえ立つ塔を見上げた。
塔の中は殺風景ではあったが、それでもあのなにもない部屋に比べれば、人のいる匂いのする場所だった。
女は赤子を抱いたまま階段をいくつか上り、大きな窓のある部屋に入った。一人掛けの大きなソファに赤子を横たえて、飾り戸棚から精巧な金細工のサークレットを持ってきた。
ソファの前に膝をついて、赤子の右手の近くに両手で持ったサークレットを近づける。
「“視えざる者”よ、いましばらくは、此処が、あなたの在るべき場所です」
女の命令とともに、赤子の右手から爆発的な風と光が巻き起こった。
包帯は風によってビリビリに破られて跡形もない。それでも女は、爆風と強烈な光にも顔色一つ変えずに、サークレットを持っていた。
部屋中を荒れ狂った風は、やがてサークレットに向けて収束され、渦巻く不思議な形を描き出していた光も消えていった。
風も光も完全に消えたところで、女はサークレットを赤子の手に握らせる。
「あなたと“真なる風の紋章”との間にできた絆は、私にも断ちきれるものではありません。ただ、あなたの好きなときに、その右手に戻すことができるようにしただけです」
そこで女はなにかを思い出したように、閉じた眼差しを赤子に向けた。
「………名前を、決めなくてはなりませんね」
女はしばらく考えこんだあと、無表情だったその顔に初めて微かに笑みを載せ赤子を抱き上げた。
「あなたの名前は、ルックです。この名はあなたの真実を語るように、『運命(さだめ)』に一字足りません。でも、あなたは必ずその足りないものを、自分自身の手で見つけることができるでしょう」
その声音にこめられた深い想いは、赤子の胸の奥にしまわれた。
「ルック、私の名前はレックナート、“門の紋章”の継承者です。これからは、私があなたの師となり母となりましょう」
赤子、いや、ルックはその言葉に応えるように、サークレットを握りしめたままの手で、レックナートの額に触れた。
その瞬間、ルックは幻を視た。
手前に大きく開かれた、巨大な門の幻。門の上枠を飾るレリーフは、抱きしめてくれている女。固く閉じられた両の目から、あとからあとから雫が零れ落ちている。
(あぁ、この人は、取りこまれてしまったんだ………)
ルックはレックナートに縋りついた。
(………僕は、いつまで正気でいられるんだろう………)
見た目は赤子でも、七年分の成長を果たしている幼子の心を慰めるように、“風”が頬を撫でていった。
遠目にハルモニア神聖国の援軍を確認したとき、ルックの表情が変わった。獲物を見つけた獣のような目。
隣にいたクラウスは、初めて見るルックの表情らしい表情に、胸がざわつくのを止められなかった。
ハイランド王国軍の偵察に出ていたリドリーの救出に失敗した幻影(ホアイン)軍は、止むを得ず撤退した。
梁山(リアンシャン)城の大広間では、予想外のハルモニアの援軍に軍議が紛糾していた。
「それは、僕に任せてくれて良いよ」
突然、現れた風使いに大広間は静まりかえった。
「ですが、対ハルモニアに割ける兵の余裕はありません、ルックさん」
アップルの言葉に、ルックは事も無げに答える。
「いらない。僕一人で、充分だ」
「そんな、無茶だよ!」
ゴクウが止めに入っても、ルックはいつもと同じ無愛想な表情。
「心配してくれるのは構わないけど、味方も巻き添え喰うよ」
「じゃあ、最小限の護衛はつけさせて。彼らには、“守りの天蓋の札”を持たせるから。良いよね、シュウ」
ゴクウはシュウを振り返る。
「それが最善でしょう。ルックの隊の副将は、クラウスだったな。人選と札の手配を頼む」
「はい」
クラウスは大広間を出た。
「ルカは君たちに任せるよ」
そう言い残して、ルックは転移魔法を起動して消えてしまった。
「珍しいこともあるもんだ」
聞こえないと思って呟かれたビクトールの言葉は、“風”がルックのもとへ運んだ。
ルックは、皮肉っぽく唇を曲げる。
「僕にも事情はある」
シュウは、キバを囮にルカの本隊を誘き出し、これを叩く作戦を講じた。ルックを大将、クラウスを副将とする一隊は、先発し敵の後背を衝くこととなった。
クラウスは精鋭三百を選び出し、各員に“守りの天蓋の札”を持たせた。三百の兵にも、ルックは多いと眉をひそめたが、これ以上減らしては帰路が危うくなるとクラウスに言われて、不承不承、納得する。
「僕からの指示は、呪文の詠唱が始まったら、各自、札を起動させるということだけ。あとは、クラウスに任せる」
いつも通りの簡潔明瞭な指示に、兵士たちももう慣れた。あとはクラウスが引き継ぎ、行軍ルートなど細かい打ち合わせがなされた。
戦いの火蓋が切って落とされた。
キバは上手くルカを挑発し、すでに軍が伏せてある地点まで誘き出すことに成功する。
だが、自軍が敵に取り囲まれたというのに、ルカはそれを嘲笑った。
「こんなもので、この俺が止められるものかよ!」
その戦い振りは、まさに鬼神そのものであった。
「………ハルモニアの部隊は、まだ来ていないね」
遠目に戦塵を眺めて、ルックがポツリと言った。独り言かも知れないと思ったが、クラウスは言葉を返す。
「向こうでも、なにかあったのかも知れません」
「あいつが来る前に敗走する羽目になるなんて、僕はゴメンだからね」
ルックが懸念するのも最もだった。ルカの白狼軍と幻影軍の数はそれほど変わらないはずなのに、押されているのは味方のほうなのだ。
「兵団長、来ました!」
伝令が走りこんできた。ルックはそれに頷いて答えるのみ。代わりに、クラウスが労いの言葉をかける。
「ご苦労。それで、陣形は?」
「はい。敵は部隊を二つにわけています。ハルモニアの援軍を含む隊は右翼。残りは、我が隊をはさんで、反対側に展開中です!」
「………取り囲まれたのは、我が軍か………」
眉をひそめて、クラウスは呟いた。
「行くよ」
ルックは相変わらずの仏頂面で、馬の腹を蹴った。半瞬、遅れて、クラウスは合図を出す。
「進軍!」
魔法兵団はハルモニア部隊の前へ現れた。弓矢の射程圏に入らない位置に陣取る。
ルックは一人、前へ馬を進めた。敵から威嚇射撃が放たれるが、弓矢はルックを中心に渦巻く風によって、あらぬ方向へ飛ばされてしまう。敵陣からどよめきが上がった。
やがて、隊が二つに割れ、奥から大将らしき人物を乗せた馬が進み出た。ルックが言っていた、あれがハルモニアの援軍を率いてきたササライという人物なのだろう。
「また君か! いったい何者なんだ! 僕とどんな関係があるんだ!!」
青い神官服を身にまとったササライは、苛立たしげに言い放った。ルックとは顔見知りのようである。
「……少年……!?」
聞こえてきた声音に、クラウスは前方を凝視した。
「………まだ、知らなくて良いよ」
ルックの返した言葉に、ほんのわずか哀しいような、諦めたような色があったと感じたのは、クラウスの気のせいだろうか。
「我が“真なる風の紋章”よ」
ルックの詠唱が始まった。
「総員、“守りの天蓋の札”を起動!」
クラウスの号令と同時に、全員が手にしていた札を起動させる。
「・・・我が敵を切り裂け!!」
呪文の完成とともに、ルックを中心として爆発的な風が湧き起こった。
烈風は、左右に展開していたハイランド軍を強襲した。人馬もろともに、紙のように巻き上げられていく。風の刃に切り裂かれる者、巻き上げられて高所から地面へ叩き落とされる者。風は血飛沫をまとい、赤い霧となって縦横無尽に走り抜けた。
後ろに控えていたクラウスたちのまわりは、札の力でそよとも風は吹かないが、札がなかったらと思うと背筋が冷える。
大混乱に陥いるハイランド軍の中、ハルモニア部隊の周りの空間が撓(たわ)んだ。風を防ぐかのように岩盤がせり上がり、一瞬にして部隊の姿が消える。
「………チェ、逃げられた」
ルックの小さな呟きは、壮絶な悲鳴と風の唸りにかき消えた。
クラウスはすぐさま、総員へ退避命令を出した。そして、馬をルックの傍らへよせた。
「私たち、いえ、あなたの役目はこれで終わりです。引き上げましょう」
「…………」
返事がない。訝って顔を覗きこもうとしたとき、グラリとルックの身体が傾いた。
「ルック……!」
落馬しそうになるところを、クラウスは慌てて抱きとめる。苦しそうに目を閉じたルックの顔は、鑞のように白く、体温が信じられないほどに低かった。
「ルック!」
「…………キ……ア……」
「ルック!? しっかりして下さい!!」
普段なら顔をしかめそうな大声での呼びかけにも、浅い呼吸が返るだけ。危険を感じたクラウスは、ルックを自分の前に乗せ、空いた馬を部下に任せると全速で撤退するよう命令した。
クラウスの声が、とても遠くから聞こえる。それに答えたくても、身体がいうことを聞かない。
どうしてこうなったのか、原因はわかっている。身に宿していない不安定な状態で、真の紋章の力を引き出したせい。師からくどいほどに念を押された禁忌(タブー)を破ったせいだった。
だが、そんなこと、ササライを見つけてしまったいまとなっては、なんの意味もない。この身体にどれほどのダメージを被ることになっても、八つ裂きにしてやりたい衝動には敵わなかった。
なにも知らずに、偽りの栄誉に酔っている彼を。いつか真実を暴き、自尊心をズタズタにしてやるのは自分の役目。
ただし、こんな辺境の小競り合いに、ハルモニアが真の紋章を、よりにもよって“真なる土の紋章”を持たせてくるとは思ってもみなかった。
(あいつは、もう、人であることを止めたんだ………。もっとも、それに気づいてさえいないんだろうけど………)
それは、ルックにとって唯一の、だが大きな誤算である。“土”が“風”の進路を阻んでしまった。ハルモニア部隊に、思ったほどの打撃を与えられなかったのが口惜しい。
だが、呪文の完成はルックのほうが早かった。最初の一陣は、間違いなくササライを襲ったはずで、いま頃はルックよりも酷い状態なのは確かである。それで、ほんの少し胸のつかえがおりて、ルックの意識はさらに沈んだ。
初めて出逢った、生気に満ちた輝く黒曜石の瞳。次に再会したとき、それは哀しい色を載せていたけれど、それでもまだ強く輝いていた。
呪われた紋章を手にしてなお、強く在れる君。それが僕にとって、どれだけの救いを与えてくれたのか、君は知らない。
あの夜、僕の言葉に君は救われたと言ったけれど、もうずっと前から、僕は君の存在なしには生きていけなくなっていた。
あの夜から、ルキアは時々ルックの部屋で寝ることがあった。
「狭い」
顔をしかめるルックに、ルキアは悪戯っぽく笑う。
「ルックは俺の部屋に来てくれないからな」
「用もないのに、どうして……」
唇は言葉の途中で奪われる。
零れる吐息がすぐに熱を帯び、背中にまわした腕に力が入る。
ルックの冷たい頬を触れていたルキアは、その手をサークレットに伸ばした。
パシッと風が鳴った。
「ってぇ……」
ルックは額に手をやって、サークレットをしたままだったことを思い出す。
「……切った」
指先を舐めながら、ルキアは起き上がった。ルックも身体を起こす。
「貸して」
風に切られた手を取って、ルックは指先に紡いだ風で傷を治した。
「ありがと」
残っていた血を舐めとると、痕さえ残していない。その指先をしげしげと眺めたあと、ルキアはまたルックの額に手を伸ばした。それを、ルックは邪慳に遮る。
「君って、本当に懲りるってことを知らないね」
ルキアは悪びれもせずに笑う。
「そんなことはないけど。………そのサークレットが“真なる風の紋章”の器なんだ」
刹那、ルックの表情が歪んだ。
憤っているのか、泣きたいのか、諦めてしまっているのか。うつむいて、サークレットを外した。
「・・・うだよ」
小さく呟かれた言葉を、ルキアは聞き損ねた。
「え……?」
「器は、僕なんだよ、ルキア」
言ってしまった言葉は、もう取り消せない。ルキアの怖いくらいに真剣な表情に、ルックは覚悟を決めた。
独りに戻るなら、いまのうちだったから。
「………僕は、真の紋章の器なんだ……」
ルキアはルックの言葉の続きを待つように、無言だった。
「……宿主を選ぶ真の紋章を、留めておく技がハルモニアにはある……。僕は、そうしてできあがった、人の姿をした人ではない者なんだよ」
ルキアの手が優しく頬に触れて、ルックは自分が泣いていることに気がついた。
「………なぁ、ルック、どうしたらお前を泣き止ませられるだろうって考えているこの俺の心は、何処から来たのか知ってるか?」
「……な、なにを……」
「そうやって、お前が悲しいと想う心は何処から来たのかわかるか?」
「知らないよ、そんなこと……!」
何処までも優しい眼差しに耐えきれなくなって、ルックは手を振り払おうとした。だが、逆にその手をしっかりとつかまれる。
「じゃあ、俺とお前は同じだ」
「な、なんでそうなるのさ……!」
顔を真っ赤にしてルックは手を振り解こうとするが、ルキアはびくともしなかった。
「所詮、身体なんていうのは魂魄の器に過ぎないんだよ。それがどういう過程でできあがろうと、そこに意識と意志が在るのなら、誰かという存在だ。例えば、俺。例えば、お前。それ以上でもそれ以下でもない」
ルックの身体から急速に力が抜けていった。
「まだなにか反論するか?」
「…………君って、どうしようもないバカだね」
ルキアはにっこりと笑ってルックを抱きしめた。
「バカって言われて、なに笑ってるんだよ」
「いつものルックだって思ってさ」
「…………バカ」
どんどん逞しくなっていく胸板に頬をあてて、ルックは呟いた。
「………いつか、君をおいていく僕に、こんなに優しくしてくれなくったって良いのに…………」
「大丈夫。追いかけるから」
見上げると、ルキアはいつもの自信たっぷりな笑顔だった。
「“風”は流れてこそ“風”。それなら、俺がそのあとを辿るよ」
物の本質を見抜く眼を持つ彼には敵わない、とルックはあふれる想いを堪えるようにきつく目を閉じた。
唯一、安心できる場所。身体さえ邪魔に想えるほど、ルックは力をこめて抱きしめた。
「……君が、君で在ってくれれば、それで良い……。他は、なにも望まないよ、僕は………」
そう言ったけれど、いま、君が側にいないのが、ひどく淋しい。
逢いたいよ、とても………。
|
|