事の始まりは、季節はずれの噂だった。
 かつてルカ・ブライトとの大決戦があった場所で、深夜、人魂が出るというのである。
「埋めた死体の燐が発火しているのだろう」
 さもくだらないと言いたげに、シュウはその報告を一蹴しようとした。
「そんなレベルじゃないんだよ。蛍の乱舞みたいな数なんだから」
「では、蛍の乱舞なのでしょう」
「もう夏も終わりだよ。それに、蛍よりもずっと大きいんだって。鞠くらいの大きさはあったよ」
 力説したゴクウを、ジロリとシュウは睨んだ。最初の報告者であったはずのクラウスは、額を押さえている。
「ゴクウ殿、よくご存じですな」
 しまった、とゴクウは口を押さえた。だが、言ってしまった言葉はもう取り消せない。
「あ、えっと、その〜、街道の安全を確保するのも、僕たちの役目だし」
「リーダー自ら赴くようなことではありません!」
 ピシャンとシュウの雷が落ちて、ゴクウは首をすくめる。
「でも、みんなと遠目に見ただけだし……」
「みんなと……?」
 シュウの肩が怒りに震えている。自分で墓穴を掘ることはあるまいに、とクラウスは内心で溜め息を吐いた。
「ゴクウ殿、しばらく外出は控えていただきますぞ」
「えぇ、そんなぁ!」
「なにか文句でもありますか」
 シュウに睨まれて、ゴクウは項垂れる。
「いいえ、なんでもありません……」
 クラウスは気の毒そうにゴクウを見たあと、シュウに採決を求めた。
「……それでは、この件は放っておきますか?」
「…………。目撃例がそれほどあるなら、そういうわけにもいくまい。カスミたちに哨戒に行ってもらう」
「わかりました」
 執務室に呼ばれて、任務の詳細を聞いたカスミは、珍しくゴクウをたしなめた。
「ゴクウさん、いつかまたそんな光景を見ることがあったとしても、決して近づいてはいけませんよ。引きこまれて、帰ってこれなくなってしまいますから……」
「う、うん、わかった。気をつけるよ」
「……すみません、差し出がましいことを言いました」
「うぅん、良いんだ。僕が軽率な行動をとったのが悪かったんだし……」
 普段もこれだけ殊勝だと良いのに、と隣で聞いていたシュウが軽く溜め息を吐いた。
 正軍師から哨戒任務を命じられたことをモンドとサスケにも言うべきなのだが、カスミはなにも告げずに一人で件(くだん)の戦場跡へ出かけた。
 思い当たることがあった。だから、どうしても誰にも邪魔されずに、それを確かめたかった。



 三年前のトランでも、カスミは蒼い炎を見たことがあった。
 同じく戦場跡近辺の哨戒任務に出ていて、無数の鬼火を目撃したのである。
「………あれは…………」
 カスミは魅入られたように、その炎へ向かって歩き出していた。
「待て、カスミ」
 その行く手を、赤い影が塞いだ。
「フ、フウマさん……!」
 いつもなら人の気配には敏感なはずのカスミも、この時ばかりは降って湧いたように現れたフウマに飛び上がって驚いた。
「あれに近づいてはならんぞ」
 厳しい表情で、フウマはカスミを止めた。
「フウマさんは、あれがなんなのか知っているのですか?」
「…………あれは、魄(はく)だ」
 人は生きているときは魂(こん)と魄が結合していて、死ぬとそれが分かれるという。死ぬと、魂は天上に上り、次の輪廻を待つ。魄は地上に留まり、大地の気に溶ける。ただし、あまりにも強い未練を持ってしまった魄は、この世を彷徨い続けることになる。
 と信じられていて、実際を確かめた者は、無論いるはずもない。
「……魄……。あれほどの数を見るのは、私は初めてです……。……でも、魄なら、鎮めなければならないのでは……?」
 霊を鎮めるのも忍びの役目。だが、フウマは答えを言い渋った。
「……それは………」
 それが却って、一つの答えをカスミに教える。
「…………あれは、“ソウルイーター”の力なのですね………」
「……知っていたのか……」
「……はい……。ルックさんが教えてくれました」
 フウマは溜め息を吐く。
「ならば、話は早い。“ソウルイーター”は、魄を喰らうものらしい。それに一体、どんな理由があるのか、俺にはわからんし、知りたくもない。……だが、一つだけわかることがある」
 カスミはじっとフウマの言葉に耳を傾けていた。
「生きた人間があれに近づけば、魂魄もろともに喰われる」
「魂魄もろともに………」
「そうだ、その者の輪廻が断ち切られる。だから、あれに近づいてはならん。……お前は、生きて、お守りしたいのであろう……?」
「………はい」
 大きく頷いて、カスミはまた蒼い炎を見つめた。
 夜の平原を幻想的に照らして浮遊する灯。いま、それに囲まれているはずのあの人は、どこかもの哀しげなこの景色をどんな想いで見つめているのだろう。



 トランで見たあの時と同じ光景を目の前にして、カスミは自分の魂魄が引きこまれないように、強く拳を握りしめた。己を保ってさえいれば、まず大丈夫なはずだ。あの人が望まない限りは……。
 気配を完全に断ち切り、夜気と同化したカスミは、ゆっくりと蒼い炎がたゆたう先へ歩いていった。
 蒼い炎が浮かび上がらせたその光景は、カスミにとって生涯、忘れられないものとなった。
 森の手前に、全身を黒いマントに包んで、ポツンと一人の少年が立っていた。
 炎に煽られて、ゆらゆらとゆらぐ黒い髪。普段と違う姿でも、見間違うはずもない。少年の名は、ルキア・マクドール。三年ぶりにグレッグミンスターへ帰り、つい最近、ゴクウに招かれてデュナン湖の梁山城へやって来た。少年の姿であるが、実年齢は既に青年の域にあることは、解放戦争に参加した者には公然の秘密だ。
 右手を軽く差しのべて、そこに宿る淡く輝く紋章に魄が吸いつくのを無表情に眺めていた。あとからあとから、蒼い炎が紋章に飲みこまれていく。ルキアも炎も、そうすることが当たり前であるように、紋章を差しのべ紋章に飲みこまれる。一切の感情の入る余地が許されないその景色の、なんと神々しいこと。
 そうやって、あの紋章が生命を廻してきたのだろう。これからも廻していくのだろう。愛しいあの人を使って。
 人の身でありながら、輪廻を廻し続けることになったルキアの側に、時を刻み続ける身体を持つ自分がいることは不可能なのだろうか。その答えを聞く勇気がとても持てなくて、カスミは自分の気持ちをずっと打ち明けられずにいた。
 きっと、ルキアはこの気持ちに気づいているのだろうけれど。驕りでもなんでもなく、事実としてカスミはそのことを知っていた。それが勇気の持てない最大の原因なのである。
 知っていてなにも返してこないということは、望んではいけないのだ。望まれてはいないのだ。
(………でも、想いが止められない………。きっと……ずっと、このまま永遠に……)
 熱を持つカスミの魂魄に惹かれて、蒼い炎がまとわりついていた。そのことに気づかないまま、カスミはルキアを見守っていた。ぼんやりと炎に浮かぶ彼が美しいように、淡い炎に縁取られたカスミの姿もこの上なく幻想的だった。
 ルキアが、心奪われてしまうほどに。
「……!」
 人の気配に視線を向けたルキアの目が、驚愕に大きく見開かれた。
「……ルキア様………」
 いつものように、ごく自然にカスミはルキアに微笑みかけた。
「……カ、カスミ……」
 掠れた声が静寂を震わせるのと同時に、いままでごく淡く輝いていただけの紋章が、強烈な光を発した。
 カスミは突き落とされたように意識が遠のくのを感じた。
(ダメ……!)
 両手で胸を押さえるようにして、カスミは膝をついた。遠のきそうになる意識を、必死で繋ぎ止める。
「やめろ! “ソウルイーター”!!」
 ルキアは絶叫して右手を押さえこむと、身を翻した。
「……ルキア様……!」
 カスミはまだふらつく足を叩いて、ルキアのあとを追った。悲鳴のような絶叫に、このままあとを追わなければもう二度と会えない、と直感が告げていた。
「ルキア様、待って……! 行かないでください!」
 懇願する声にも、ルキアは足を止めなかった。振り向きもしなかった。

 ルキアがその戦場跡に来たのは、偶然だった。ゴクウに招かれた梁山城からの帰り道。まだよく知らない都市同盟をよく見たくて、まわり道をしながら、トランまで帰る途中だった。
 その場所に立ったとき、ざわりと身体中の血が騒いだ。久しぶりにあてられた魄の嘆きに、思わず膝をついてしまった。志半ばにして、肉体と引き離され行くあてをなくした心の欠片たち。知ってしまったからには、見過ごすことはできなかった。
 それが“生と死を司る紋章”の望みだから。彷徨うことしかできない魄の望みだから。
 それから、夜ごと、此処へ来ては魄を喰らった。望みのままに、魄は紋章へと吸いこまれた。それが一体、この世の理とどう関わっているのかは、いまだわからなかったけれど。でも、それが、この紋章を宿す自分の役目であることは、あの戦争の頃から知っていた。
 今夜中に、残りをすべて吸収できると思った夜。まさか自分を出し抜いて、近づける人がいるとは思いもしなかった。
 差しのべた紋章に吸いつく蒼い炎は、ゆっくりとたゆたうようにやってくる。その速さが、さらに遅くなったことに気づいて顔を上げると、彼女がいた。
 生きている証である熱を持つ彼女に、蒼い炎が惹かれてまとわりついていた。ぼんやりと淡く浮かび上がった彼女は、とても綺麗だった。蒼く照らされているはずなのに、でも、確かに、朱鷺色がそこにあった。
 『欲しい』と封印したはずの願いを望んでしまうほど、彼女は綺麗だった。自分がそう願えば、必ずこの紋章が叶えてしまうことを知っていたはずなのに。
 奪われた心を取り戻したのは、その禍々しい輝きだった。
「やめろ! “ソウルイーター”!!」
 魂魄もろともに喰らおうとする紋章を、全力で抑えつけた。
(そんなことだけは、絶対に許さない……!)
 こんな人ならぬ姿を見られて絶望に支配されようとも、光を与えてくれた彼女を死なすわけには行かない。
(カスミは、絶対にお前に喰らわせたりしない!)
 そうするためには、もう二度と会わないのが最善の方法だった。
 だから、呼び止める声にも振り向かなかった。
 まさか追いついてくるとは思いもしないで。カスミの忍びとしての実力を思い知らされることになるとは。
 そして、あの予言が実現することになろうとは。
 ルキアは、思いもしなかった。
 持久力は確かに男に劣るかもしれない。だが、そのスピードは誰にも負けない自信がカスミにはあった。
 森の中へ入ったルキアは、木々に紛れてカスミを撒こうとしたが、どうしても引き離すことができなかった。
(本当に……?)
 半身を引き裂かれるようなこの痛みに、身体が思うように動かないだけでは。逃げ切るのを諦めたルキアは、大樹の陰に身を潜めてカスミをやり過ごそうとした。
 だが、人の気配に人一倍敏感な忍びの目を誤魔化せるはずもない。カスミはルキアの隠れた木の前で立ち止まった。
「ルキア様、そこにいらっしゃるのでしょう……?」
 変わらない優しい声に、ルキアは眩暈がしそうだった。
「そちらへ行っても良いですか?」
「……ダメだ………。来ないで、くれ……」
「………どうして………」
 カスミは苦しそうに、両手を胸許できつく組んで立ち尽くした。
「どうして……? それは私が訊きたいよ、カスミ。……あんな、人の身では有り得ない姿を見ても、そうやって笑いかけてくれるのはどうして……? たったいま、喰われそうになったばかりだというのに、私の側にいたがるのは何故?」
 木の幹にもたれて、ルキアはきつく目を閉じた。
「…………。いつかも申し上げました。私にとってルキア様の側にいることは幸せなことであって、怖いと思ったことなんかありません。それは、たったいまも変わっていません……!」
 木々の隙間を縫って射しこむ月明かり。ルキアの身体を隠してしまうほどに太い幹の向こうから、微かに溜め息が零れたのが聞こえた。
「ルキア様………」
「…………。カスミ、私はね、この世界のなにもかもがたまらなく愛おしいよ。もともと、私の中にそういう想いがあったのか、それともこんな紋章を宿すことになったからなのか。…………それとも、これは“ソウルイーター”の想いなのか。もう、わからないけれど」
 淡々とルキアは語った。
「人だけでなく、そよぐ風も緑の木々も、そこかしこで息づいている生き物たちも、そのすべてが愛おしい。………でも、私はなに一つ望んではならないんだ」
「……どうしてですか……?」
「『欲しい』と望めば、この紋章が喰らい尽くす事でそれを手に入れてしまうから。この想いのままに求めたら、世界が滅ぶ
 ぽろぽろとカスミは涙を零した。
「あなたは、それで、良いのですか……?」
「………想いを受け止めることはできるから………」
「あなたの想いは、どうなるのですか!?」
「…………永劫続くかと思われた孤独に比べれば、どれほどのものだと……?」
 ルキア・マクドールという男の身体に、根を張った“ソウルイーター”。それとも、紋章に根を張りめぐらしたのは、ルキアのほうなのか。それはもう、誰にもわからない
 カスミは、涙の止まらない瞳に決意の光を宿らせた。
「では、私が生きてあなたの側にいます。紋章に喰らわれることなく、あなたと一緒にいられるように、私のすべてを捧げましょう
「カスミ……?」
「ルキア様、それでも、私はこの想いを止められないのです」
 カスミは首に巻いたスカーフの下に手を潜らせて喉に触れた。
(この力を使えば、私のすべてをルキア様のものにすることができる。………それは、誰よりも自由なこの方を、私の言葉で縛ってしまうということ……。でも、それでも……!)
 喉を触れていた手を下ろして、カスミは深呼吸した。そして、全身全霊をこめた“言魂”を紡いだ。
上邪
(天上の神々に、私は誓います)
 我欲與君相知
(私はあなたとめぐりあい、)
 長命無絶衰
(この愛がいつまでも失われないことを願います)
 山無陵
(山が大地へ還り、)
 江水為竭
(大河の水が涸れ尽き、)
 冬雷震震
(冬に雷が轟き、)
 夏雨雪
(夏に雪が降り、)
 天地合
(天地が崩れて世界が滅んだときには、)
 乃敢與君絶
(その時には、あなたへの愛を絶ちましょう)

 永遠の愛を誓う古歌である。ルキアが初めて聴いた、カスミの心である。
 朗々と響き渡る美しい声に、ルキアは聴き惚れた。カスミの深い想いが胸に染みて、いつのまにか涙が頬をつたっていた。
「ルキア様……」
 カサリと下草を踏んで、カスミがルキアの傍らに立っていた。心配そうに見つめている愛おしい眼差し。絡みあう視線をやっとの思いで引き剥がして、ルキアは天を仰ぐと、両手で目を覆った。
(……ダメだ………。とても、抑えられない………)
 心の奥深くに鍵をかけて閉じこめた想いが、いつのまにか身体中にあふれている。真摯な眼差しも、健気な性格も、音楽のようなその声も、ずっとずっと好きだった。
 だけど、紋章のせいで、諦めた。生きていて欲しかったから。笑っていて欲しかったから。
(それも、もうお終いだ……。好きにしろよ、“ソウルイーター”。……私も、生きてはいられないけれど………)
 力無く、ルキアの右手が落ちた。紋章が淡く輝いていたのが見えた。
「………ごめん、カスミ……。もう、とても、止められない………」
 最後にもう一度、カスミを見たいと思い、ルキアは顔を向けようとした。
 その時。
「……!?」
 鎖が縛める音が聞こえた。そして、右手にいままで感じたことのない違和感。
 “ソウルイーター”は、確かにルキアの心に反応してその力を起動させようとしているのに、なにか別の力がそれを完全に封じこめているのである。
「ルキア様、“ソウルイーター”は私を喰らうことはできません
「…………え?」
 静かに告げられたカスミの言葉に、ルキアは茫然と聞き返した。
「“言魂”をご存じですか?」
「………言葉には力があって、その通りになるっていう……?」
「はい。私は言魂使い……“呪う者”。………私は神にあなたへの愛を誓いました。何度でも生まれ変わって、あなた一人を愛すると。それを阻むことができるのは、この世の終わりであって、その紋章ではないのです。だから、私は絶対に、喰らわれたりしません」
 目を瞠ってルキアはカスミを見つめた。
「何処までも自由なあなたを、私の言葉で縛りたくはなかった。でも、あなたが孤独の中で生き続けることには、もっと耐えられなかった……!」
 堪えきれずに、カスミはその場に泣き崩れた。
 ルキアはゆっくりとカスミの言葉を反芻する。その言葉が、ゆっくりと、治ることはないと思っていた心の傷を癒していくのを実感する。
 膝をついて、ルキアはカスミの肩に手を置いた。カスミは泣きながら顔を上げた。
「カスミは絶対にこの紋章に喰らわれたりしないんだな……? 私がどれだけ望んでも、平気なんだな……?」
 こくりとカスミは頷いた。
「ずっと私の側にいて、天寿を全うして、そしてまた生まれ変わって、私を愛してくれるのか……?」
「はい。私の輪廻は、ルキア様に結びつけられました。だからまた、次の世も必ずめぐりあって、私はあなたを愛します」
「私がこの言葉を告げても、本当に大丈夫なんだな……? ………もし、お前が喰らわれたりしたら、私は………」
 何度も確認をするルキアに、カスミは泣きながら微笑みかけた。
「大丈夫ですよ。私のすべては、ルキア様のものですから。ルキア様が、私に生きていて欲しいと願ってくれるなら、私は生きていられます。……だから、どうか、ルキア様の気持ちを、教えてください……」
 ルキアはまた溢れだしたカスミの涙を、優しく拭った。そして、カスミの大好きな笑顔でささやいた。
「愛してるよ、カスミ」