ルキアは自分の左腕を枕にしているカスミの寝顔を、幸せそうに見つめた。うっすらと空が白んできているのが、木々の隙間から零れる光でわかる。日の出直前の急激に冷えてきた外気にわずかに身を震わせて、しっかりとマントにくるまり、カスミを抱き寄せる。息のかかるほど近くにカスミの寝顔がある。それがまた、たまらなく嬉しい。
 右手でそっと目許にかかっていた前髪をかき上げると、わずかな光の中でも閉じた瞼が赤く腫れぼったいのがわかった。
(……泣かせすぎた、かな………)
 いま頃になって、なんだか申し訳ない気持ちがこみあげて、起こさないようにそっと瞼にキスを落とす。
 想像以上に華奢な身体で、大事に優しく抱きたかったのに、そんな理性はあっという間に弾け飛んで、壊してしまいそうなほどだった。でも少しでも離れたら、この手から消えてしまうんじゃないか、とそんななんの根拠もない不安がまだ拭えなくて。何度も何度も、その存在を確かめるように抱いた。
 いまやっと、自分の腕の中で安らかに眠るカスミを見つめて、幸せで、嬉しくて、安心している。
(たぶん今日は、声もろくに出ないんだろうな……)
 ごめん、とそっと額にキスを落とす。そして、ささやいた。
「……カスミ、信じてるから………。だから、お前も私のことを信じてくれ……」
 淡く紋章が輝く右手を、カスミの額にのせた。

 カスミは、夢を見ていた。
 まわりはミルクホワイトの霧が立ちこめて、自分の手足さえよく見えない。歩いているのか、立っているだけなのか、それもよくわからなかった。
 ジャラッ……!
 何処かで、鎖の鳴る音がした。霧が邪魔をして、あまりはっきりとは聞こえなかったが、金属の鳴る音には違いなかった。カスミは音の聞こえたほうへ顔を向けた。
 音が断続的に聞こえてきた。さっきよりも近づいている。誰かが、鎖を引きずって歩いているかのよう。濃い真白の霧の中、カスミは目を凝らした。
(………誰……?)
 ぼんやりと人影が見えてきた。霧もほんのわずか薄くなったようだ。朧に見える人影が、鎖をまといつかせているのもわかる。
「重い……!」
 低く憤った声が聞こえた。カスミは、その声を聞いたことがある、と思った。
「……大丈夫ですか……?」
「そなたこそ、重くはないのか……?」
 訊かれて初めて、カスミは自分にも鎖が身体中に巻きついていることに気づいた。だが、少しも重くないし、金属の冷たさも感じない。
「えぇ、まったく」
 鎖は身体に巻きついているだけで、縛るようにはかかっていないので、動きもまったく制限されない。一つの端は、喉をぐるぐると巻いて胸許に下がり、もう一つは足許に落ちて、ぼんやりと見える人影のほうへ続いていた。
「…………。いずれ、重くなる」
 唸るように、不機嫌そうな声が返ってきた。
「………どうしてですか?」
「そなたは歳を取り、やがて醜く老い衰えていく。だが、は、永遠に若く美しいままだからだ」
 カスミは自分にまとわりついている鎖を見つめた。
「…………えぇ、確かに、そうかもしれません。……でも、姿は醜くなっても、私の心までもが醜くなるわけじゃありません」
 顔を上げて、人影を見つめた。
「私は、あの人と再会して、そのことに動揺して、すごく傷つけてしまったことがあります。……どれだけ後悔したかしれない。私だけがつらいんじゃない。残されるあの人だってずっとつらいのに。それに、姿は変わらなくても、心には刻まれる時間がある。………そのことに気づいたとき、私は決めたんです。あの人を支えられるように、私も心を成長させようって。だから、きっと、いまの私にはそのことに耐えられないかもしれないけど、ずっと先の年老いた私には耐えられるとは思いませんか……?」
「………彼に耐えられなかったら……?」
 カスミは、艶やかに笑った。
あなたが選んだあの人は、そんな器量の狭い方だとは思えませんけど……?」
 忌々しげな舌打ちの音が聞こえたあと、プッと吹き出す声が聞こえた。そのまま我慢できないとでもいうかのように、快活な笑い声が続く。
「………あぁ、スッキリした」
 ひとしきり笑った人影は、そう言った。そして、先ほどまでとは打って変わって、鎖をものともせずに右手をひらひらと振った。
「こいつを黙らせるなんて、凄いな。……最後に、自分で言うのはどうしても嫌だったみたいだから、私から伝えておくよ」
 カスミのよく知る大好きな甘い声が聞こえた。
「ありがとう」

 カスミはパチッと目を覚ました。
「おはよう」
 すぐ間近にルキアの顔があって、にこりと微笑まれた。
「……お……う、ござ……す……」
 声がすっかり掠れてしまって、ちゃんと言葉にならない。カスミは目を瞬いて、喉を押さえた。申し訳なさそうに、ルキアは苦笑する。
「ごめん。今日は、声、出ないと思う……」
 その理由に思い至って、カスミは真っ赤になった。そのいとけなさがたまらなく可愛くて、ルキアはカスミを抱き寄せて、柔らかな髪にキスをした。
「もうこんな無茶はしないから、許してくれ」
 甘やかにささやかれては、返す言葉も見つからず、カスミはさらに真っ赤になってうつむいた。そして、その声音で先ほど見た夢を思い出す。
「……あ、の……夢……見ま、た……」
 ルキアはカスミの髪に顔を埋めたまま訊いた。
「………怖かったか……?」
 動ける範囲で、カスミは首を横に振って答える。
「良かった……。……どうしても、話をさせろってうるさくってさ。本当に、しょうがなく、これっきりってことで、許可したんだ」
 拗ねた子供のような口振りに、カスミは笑った。カスミを見つめて、ルキアもにこりと笑った。
「………ル、ア、様……あな、も、重く…ない…すか……?」
 ルキアは心外だと言わんばかりに目を瞠った。
「そんな風に見られてたのなら、かなりショックかも……」
 目に見えて落ちこんだルキアに、カスミは慌てる。
「あ、いえ……あの……」
「……お前の言いたいこともわかるけどな」
 そう、カスミはルキアに自由でいて欲しい、とも言っていた。
「いまの私は、これまで生きてきた中で、一等、自由だ」
 真摯な眼差しは、深い深い声音をカスミの心に真っ直ぐに届ける。
「……見こみ違いだったって思われないように、私も頑張るよ」
 カスミは嬉しそうに、幸せそうに笑った。

 朝靄の中、カスミは梁山城へ帰ってきた。まだ、ほとんどの者は寝ている時間である。ルキアの闇色のマントにすっぽりと身体を包んで、まもなく目覚めの時を迎えようという城の庭を歩いていく。
 道場には微かに人の気配がした。朝練に励む者がいるのだろう。それにちらりと目を向けて、カスミは西棟の扉へ向かった。
「カスミ殿」
 不意に声をかけられても、カスミは動じることなく声の主を振り返った。呼び止めたのは、モンドだった。
「シュウ殿から哨戒任務が出ていたのですな。声をかけてくだされば良かったのに」
『すみません。確かめたいことがあったので』
 カスミはロッカクの里で使われている指文字で答えた。
 おや、とモンドは首を傾げて、カスミを見つめた。
 赤く腫れた目許。しっかりと大事そうに袷を握りしめられた、男物のマント。そして、指文字が伝えた『確かめたいこと』。
「………声が出ないのですか?」
 カスミの頬に朱が差した。かろうじて頷いて答えが返るのを、モンドは苦笑まじりに見ていた。
「蒼い火は魄だったのでしょう。どうでしたか?」
 これには白く細い指がなめらかに動く。
『それは大丈夫です。もう現れることはありません』
「お疲れさまでした。今日はゆっくりとお休みなさい。シュウ殿への報告は儂がしておきます」
『ありがとうございます。お願いします』
 カスミは軽く頭を下げた。
「…………。『確かめたいこと』は確かめられたのですかな?」
 はにかむような笑顔だけが返ってきた。
 西の棟へ入っていくカスミの背を見送って、モンドは軽く息を吐いた。これが、娘を嫁に出す父親の心境か、と思いかけ首を振る。
ハンゾウ様の立場を取ってはいかんな……)
 心中如何ばかりになろうか、と思うだけに留める。
 ただ、これで是が非でもサスケには頭領の器に成長してもらわなくてはならなくなった。しごき甲斐があるぞ、とモンドはニンマリする。今朝の件は絶対に秘密だが。


 ルキアは、グレッグミンスターの我が家へと帰ってきた。
「お帰りなさい、坊ちゃん」
「ただいま、グレミオ」
 居間のソファにくつろぐルキアを見て、グレミオは首を傾げる。
「坊ちゃん、なにか良いことがあったんですか?」
 グレミオからお茶を受け取りながら、ルキアは極上の笑みを見せた。
「うん。永遠の伴侶を手に入れたんだ」
 目を瞬いたあと、グレミオも笑顔で祝福した。
「おめでとうございます。……いつかグレミオにも、紹介してくださいね」
「もちろん。都市同盟の戦争が終わったらな。そうしたら、彼女にも時間ができるだろうし」
 健気な少女の姿を思い出し、グレミオは本当に良かったと心から思う。
「テオ様もローテ様も、喜ばれていることでしょう」
「あぁ、そうだと良いな……」
「そうに決まってます」
 力強く請け負うグレミオに、ルキアは苦笑する。そして、久しぶりに両親の墓参りに行こう、と決めた。








二人一緒なら、愛はいつだって自由。



END