そこは、青と白の大広間だった。豪奢なシャンデリアや壁にかかる洋燈のすべてに灯りが入れば、眩いばかりの美しい部屋であったろう。
だが、いまそこは、陰鬱とした空間だった。シャンデリアには灯りは一つも入っておらず、玉座の前を照らすために、数個の洋燈が灯るだけ。洋燈が照らしているのは、“獣の紋章”である。
ハイランド皇家の成立とともに、ずっとそこに鎮座して、皇家の安寧を守護してきた“27の真の紋章”の一つ。それは、ルカ・ブライトの手によって、穢れを浴びてしまった。
ゆっくりとルキアは広間の中央を進んだ。むせかえるような血の臭いに、吐き気と怒りがこみ上げてくる。
だが、まるでその怒りを鎮めようとするかのように、小さな歌声が聞こえてきた。幼い少女が紡ぐ歌。
「The world shall soon to ruin go,
The sun refuse to shine;
But God, who called me here below,
Shall be forever mine.
When we've been there ten thousand years
Bright shining as the sun
We've no less days to sing God's praise
Than when we first begun.」
ルキアは玉座へ目を凝らした。
まず、目についたのは、三メートルはありそうな巨大な黒い剣が三本。柄も刃も漆黒の、有り余る力をまとわりつかせた剣が、床のレリーフに鎮座する“獣の紋章”を囲うように突き立てられている。その逆三角形の中には、血塗れの二頸の獣がうつ伏せていた。二つの頭の間には、不思議な輝きを放つ球体が浮いている。レリーフはとても大きいはずなのだが、狼によく似た獣も巨大で、身をすぼめるようにしていた。
そして、斜めに大きく傾いだ剣の前には、淡いピンクのドレスを着た少女が跪いていた。
「………ピリカ……?」
ルキアは記憶の中から、一つの名前を呼んだ。少女は弾かれたように振り返った。
「ルキア様!?」
一度だけ出会った幼子。鄙びた村で、祠を管理していた家の娘だと教えてもらった。“輝く盾の紋章”と“黒き刃の紋章”が祀られていたというその祠に、ピリカが案内してくれたのだと。ただ、ゴクウは彼ら一家を祠が荒れないようにと設けられた管理人くらいにしか思っていなかったようだが、ルキアは一目で看破した。ピリカの身の内を流れる血の尊さを。“創世の双子”を祀る巫女の血が、確かにこの少女にも流れている。
(“門番の娘”がしゃしゃり出てこなくても、世界は自ら望むように廻っていく……)
そして、ピリカもまたその血によって、一度だけ出会った少年に真なる紋章が宿っていることを知っていた。
「久しぶり、ピリカ」
ルキアは駆けよってきたピリカを抱き上げた。
「うん、ルキア様。また会えて嬉しい」
ピリカも笑顔を返す。伸びてきた飴色の髪をドレスとお揃いのリボンで結んで、表情も少しだけ大人びたようだった。
「声が出るようになったんだな、良かった」
「ありがとう」
小首を傾げて、ピリカは後ろの獣を振り返った。
「ルキア様、あの子に会いに来た?」
「………そうだよ」
眉間に皺をよせて、ルキアも獣を見つめた。
記憶にあるのは、白銀の美しい毛並みを持つ姿。だが、目の前の獣は、もとの毛色などわからなくなってしまうほど、血の穢れが酷すぎた。
獣はいつのまにか頭を上げて、じっとルキアを見つめていた。
「ピリカね、お母さんがお祭りの時に歌っていた歌を、毎日、この子に歌ってあげてるの。………でもね、これ以上は、どうしても綺麗にしてあげられないの……」
「そう………」
では、かつてはもっと酷かったということになる。ルキアはキリッと皓歯を鳴らした。
「ミューズにあったあの禍々しい気が、お前自身だとは知らなかった。私にも祓う力はあるから追ってきたが、まさか此処まで酷いとは………」
浮いている球体が、煌めいた。ピリカの身体が、ピクンと跳ねる。
「ピリカ……?」
ぎこちなくルキアを見たピリカの目は、焦点があっていない。
「…………。お前が気に病む必要はない、“生死を統べる者”」
幼い少女の口から紡がれたのは、低くくぐもった声だった。ルキアは目を瞠ったあと、ピリカの身体をぎゅっと抱きしめた。そして、獣を真っ直ぐに見つめる。
「だが、これが、この国を守護してきたお前に対する仕打ちか……!?」
「そうだ。これが、この国の者たちが選んだ結果だ」
「………それで、良いのか……?」
「どうしろと?」
ルキアは言葉に詰まって、唇を噛む。
「我は待っている。この穢れにも負けない者たちを。いまのこの我に勝てる力を持つ者たちを。それまでは、この強引な封印に耐えていよう」
「………それでは困る」
「“破壊する者”のことを気にしているのか?」
「正確には“守護する者”のほうかな。“破壊する者”にこのまま死なれたのでは、彼があまりに哀れだ」
「………では、好きにするが良い………」
ピリカの身体から、急に力が抜けた。しっかりとルキアは抱きしめる。
「……あ、あれ……? ルキア様……?」
ルキアは少し腕の力を緩めて、ピリカを見つめた。
「大丈夫かい、ピリカ?」
「うん……。いま、あの子がいた………」
小さな手を自分の胸にあてて、ピリカはルキアを見た。
「ごめん、怖い思いをさせたな……」
ゆるゆるとピリカは首を振る。
「平気。少しも怖くなかったよ」
「良かった」
ホッとしたように微笑んで、ルキアはピリカを下ろした。身にまとっていたマントを外すと、ピリカも見たことのある紅い服ではなく、漆黒の衣装が現れた。上着の裾が邪魔にならぬように巻かれた、腰の帯だけが紅い。ルキアは目線をあわせるために片膝をつく。
「彼の穢れを少しもらっていくよ。此処まで酷いと、さすがの私にも完全に祓うことはできない。あの封印がいらなくなるくらいの分だけが限界だ」
「で、でも、今度はルキア様が……!」
ダメと頭を振るピリカを、ルキアは優しく抱きしめる。
「大丈夫。浄めてくれる人に心当たりはあるから。それに、あの剣の持ち主と私は面識はないけれど、彼がつらいと、ピリカやゴクウが悲しむからな」
ギュウッとピリカはルキアに抱きついた。
「ごめんなさい、ルキア様。……ありがとう」
「どういたしまして。……少しの間、すごく嫌な臭いがすると思うから、これを羽織ってるんだよ」
「うん」
ルキアは鼻や口許も隠れるように、ピリカをマントで包んだ。
穢れた獣は、変わらずにじっとルキアを見つめていた。また、球体が不思議な煌めきを発する。
「お前が廻した輪廻の結果だ」
後ろから、くぐもった声が聞こえた。キュッと拳を握りしめ、ルキアは獣を見上げた。声はさらに紡がれる。
「断ち切れば良い。お前が穢れを引き受けるよりも、ずっと効率が良い」
「黙れ」
低く、静かに、ルキアは告げた。端正な容にはなにも浮かんでいない。
「好きにしろと言ったのは、お前だ。好きにさせてもらうさ」
ルキアは目の前の黒き刃に触れた。
手の触れていない、残りの二本の剣が音もなく宙に浮くと、ルキアが手を置いた剣に向かって飛んだ。
「ルキア様!」
ピリカが悲鳴を上げる。二本の剣先が、傾いだ剣に突き刺さったとき、ぶつかりあう力が黒い光となって、広間を覆った。
恐る恐るピリカが目を開けると、巨大な剣は何処にもなかった。ルキアの目の前には、少し大振りな、それでも人の扱える大きさの剣が一本、突き立っているだけである。ルキアは無造作にその剣の柄を取り、引き抜いた。
うずくまる獣の足許、正確にはその下にある床に刻まれた“獣の紋章”のレリーフから、血が流れ出した。いままでとは比べ物にならないほどの血の臭いに、ピリカはマントをきつく握りしめた。
ルキアは剣を持ったまま獣を見上げて、儚げに笑った。
「それでも、私は、愛おしい………」
本物の血ではない。穢れの正体が、目に見える形で顕現しているだけである。血はまるで意志を持っているかのように、ルキアの足許へ流れ、触れる直前に色をなくして消えていく。やがて、流れ出た血をすべて吸収したルキアは、剣にもたれるようにして膝をついた。
「ルキア様!」
ピリカがルキアへ向かって走り寄る。
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
泣きじゃくりながら、ピリカはルキアに謝った。
「……ピリカの、せいじゃないよ………」
苦しそうな息を少しずつ整えて、ルキアはピリカに笑いかけた。
「でも、でもぉ………」
泣きじゃくるピリカの頬にそっと手を添えた。黒い手袋に涙が染みを作る。ルキアはふっと身体が軽くなるのを感じた。
(まだ幼いけれど、さすが“嘆きの者”の巫女………)
ルキアはピリカの頬を両手で包んで、零れる涙に唇を寄せた。
その時、大きな音をたてて扉が開いた。
「ピリカ!!」
淡い金の髪をなびかせて、少年が入ってきた。二人の将軍職らしい男たちを従えている。
ゴクウとナナミから聞いていたよりずっと色が薄い気がする少年の瞳を、ルキアは見つめた。
(彼が、ジョウイか………。血の気の多そうなのが第四軍団のシード、冷徹そうなのが第三軍団のクルガンかな)
炎のように紅い髪の精悍な男と、気難しそうなシルバーグレイの髪の男へと、順に視線を向ける。
さらに意識を凝らせば、扉の外は数十人の人の気配がした。だが、この穢れの酷さでは、紋章の加護か余程の胆力がない限り正気を保つことは難しい。待機している兵に取り囲まれるようなことにはならない、とルキアは判断した。
「思ったより遅かったな」
軽く息を吐いて、ルキアは突き立てていた剣を手にとって立ち上がった。
「貴様、誰だ!? “獣の紋章”になにかしたのか!?」
ジョウイの前に出てシードは剣を構えるが、その視線はルキアの後ろに伏せている獣に釘付けになっていた。
「シードお兄ちゃん、この子が視えるの!?」
マントにくるまったまま、ピリカは驚いた声をあげた。
「……あぁ、やっぱり、私がいると視えるんだね……」
ルキアはそう呟くと、無造作に持っていた剣を投げた。
そのあまりに無造作な仕草に、シードとクルガンは剣の行方を確認するのが遅れた。標的だったジョウイも。
黒き刃は、吸いこまれるようにジョウイの身体の中へ消えた。ガクリ、とジョウイは膝をつく。
「陛下!」
クルガンが駆けよって、ジョウイを支えた。
「大事ないさ。力がもとに戻ったんだから、さっきよりも楽になってるはずだ」
平然と言ってのけたルキアに、シードが激昂する。
「それで、納得できるか!!」
「ダメ、シードお兄ちゃん! ピリカの友達なんだよ!! ひどいことしないで!」
ピリカがルキアの前に立って、両手を広げた。うっ、とシードは踏み止まる。
「友達……? 都市同盟の人間か!?」
「違う」
不機嫌そうな表情で、ルキアは答えた。片膝をついて、後ろからピリカを抱きしめると、まだ乾ききらない涙を口に含んだ。
「き、き、貴様ー!! その手を放せ!」
頭に血を上らせて、シードは剣を突きだした。ルキアはピリカを抱えたまま、後ろへ跳んで避ける。
「危ないなぁ」
さして、危険を感じてない様子で、ルキアはぼやく。ピリカを下ろして、頭を優しく撫でた。
「此処で、ちょっと待っててくれ」
「うん。……あ、あの………」
心配そうに見上げるピリカに、ルキアは微笑みかける。もう片方に残る涙を指ですくって、これも口に含んだ。
巫女の涙は、体内に淀む穢れを少しでも浄めてくれる。
「大丈夫。ちょっと遊んでくるだけだから」
シードに向かって歩きながら、背中の棍を抜いた。
「あなたは、此処でなにをしていたのですか?」
クルガンがシードの隣りに立って訊いた。ルキアのまとう気炎に、どうしても気圧されてしまうのを自覚している。
「彼の穢れをもらっていた」
ルキアは親指で後ろを指した。
「穢れ? 何故、“獣の紋章”が具現化しているのです……?」
「血を浴びてしまっているが、最初から彼はこの姿だ。いままで、お前たちに視えていなかっただけのこと」
力の反動を抑えこんで立ち上がったジョウイが、まじまじとルキアを見つめた。なにか言いかけるが、それより先にシードが問いを発する。
「どうやって此処まで来た?」
「それは秘密」
「ふざけるな!」
シードは剣を横に薙ぎ払った。ルキアは棍でそれを受け止める。
「私はいつでも真剣だ」
棍と剣越しに、シードを睨みつける。
「守護者であるあの紋章を穢した貴様らに言われたくはない!」
眦(まなじり)をつり上げて、ルキアはシードの腹を蹴り飛ばした。吹っ飛ばされても、その勢いを利用してシードはすぐさま体勢を立て直す。
「シード……!」
クルガンは右手に雷を集めていた。
「クルガン、そいつをよこせ!」
剣を上に向けて、シードが叫ぶ。心得たように頷いて、クルガンは“雷鳴の紋章”を解放する。凄まじい稲妻の光は、シードの剣にまとわりついた。シードはその力をのせた剣を、ルキアに向けて振り下ろした。剣先から伸びた雷光が、ルキアに襲いかかる。
ルキアは棍を左手に持ちかえて、右の手のひらを上へ向けた。ルキアを目がけていた雷光は、急激に軌道を変えて、手のひらの上に出現した黒い靄へと吸いこまれてしまった。
だが、シードはそれに構わず、剣を左下から斜めに斬り上げる。ルキアは身体を一回転させながら、勢いを乗せた棍で剣を弾き返し、正面に戻ったところで、わずかにバランスを崩したシードの右側へ得物を振り下ろす。クルガンの剣が、寸前のところでそれを弾いた。ルキアはその力に逆らわず、跳躍して下がる。
二人がかりの攻撃がたった一人に掠りもしないことに、シードは歯噛みした。
「あ、あなたは……!」
大広間にまた一人、男が入ってきた。ルキアを見て、愕然としている。立派な口髭を蓄えた中年の男の登場に、ルキアはますます険悪な顔つきになった。
「久しぶり、レオン」
表情とは裏腹に、ルキアは棍を下ろした。
ジョウイは不思議そうにレオンとルキアを見比べた。自分の軍師がこんなにも動揺していることにも驚いているが、自分と対して変わらない年頃の少年が、年長者であるレオンを呼び捨てにしたことにも驚いた。
「二人とも、剣をおさめるのだ。陛下の御前だぞ」
「だが、軍師殿、こいつは侵入者だ。陛下の身を危険にさらすわけには行かない!」
「この方は、そのようなことをする方ではない。それに……」
レオンが飲みこんだ言葉の先を、ジョウイは悟る。同じ棍を得意とする者だからこそ、余計にわかる。目の前に立つ不思議な少年が、ハイランドが誇る二将を以てしても敵うかどうかと思わせる技量であることが。
シードとクルガンは渋々、剣をおさめ、ジョウイに道をあけた。ジョウイはルキアに近寄ったが、間合いに入ることはしなかった。
「…………どうして、こんなことを……? “獣の紋章”の穢れをもらったと言うのなら、君こそただでは済まないだろう」
ジョウイの問いに、ルキアは歌うように答える。
「“誇り高き者”を憐れみ、“守護する者”を憐れみ、無辜の民を憐れんだ。ただ、それだけのこと」
ジョウイは困惑した。
「では、私も訊く。……何故、あの狂皇子を増長させた? 友を裏切り、故国を護ってきた者を穢し、この国を滅ぼして、お前はなにを手に入れるつもりだ?」
真っ直ぐにジョウイを見据えて、ルキアは糾弾した。唇を噛んで、ジョウイはうつむいた。
「なにを言ってやがる! この戦争は、俺たちの勝ちだ!」
憤るシードをレオンが押しとどめる。
「この戦争はまだ終わっていません。いかなあなたといえども、先のことなど、わかるはずもありますまい」
答えられないジョウイに代わって、レオンが言った。
「無辜の民を憐れんだと仰るのなら、我らに手を貸していただけるのですか……?」
「軍師殿……!」
シードとクルガンは非難の眼差しをレオンに向けた。この少年の実力は認めるが、それ以上にまとう気配が険悪すぎる。素直に首を縦に振るとも思わないが、賛成することはできなかった。
すり替えられた論点をさして気にする風もなく、ルキアは口の端を上げた。
「レオン、本気で言ってるのか? それだけは、あり得ない。ユーバーがこの国にいる限りはな」
思いがけない名を聞いて、ジョウイやシードたちは目を瞠った。
「彼にも挨拶ぐらいはしておこうかと思ったけど、異界に逃げられてしまっては、さすがの私にも追うことはできないな」
宙を彷徨っていた視線が、再びレオンに向いた。
「…………それを、見越していたんだろう?」
レオンは音をたてて血の気が引くのを感じた。
「私という不確定要素に備えて、わざわざ彼をルカに引きあわせたんだろう……?」
ルキアは微笑んだ。幾度か敵に見せたその凄惨な含笑を、いままさに自分に向けられて、レオンは意識的に両足に力をこめて踏ん張り、関節が白く浮き出るほど拳を握りしめた。
そうでもしないと、跪いてしまいそうで。

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