月の詩(うた)



 ミューズ奪還作戦の失敗から十数日が過ぎた。
 トランの義勇軍は留守を任されたので出撃はしなかったが、哨戒任務は当然ながらある。ようやくカスミは事後処理から解放されたが、今月はお休みがもらえそうにないな、と知らず知らずのうちに溜め息が零れた。
「なんじゃ、溜め息なぞ吐いて。雑務から解放されたのではないのかえ?」
「シエラ様……!」
 カスミは目を瞠って、目の前に立つ美少女を見つめた。
「暇なのであろ? 髪を結っておくれ」
「はい」
 強引な物言いでも、少しも嫌に響かない。カスミは軽く笑って頷いた。
 二人はバラ園のテーブルにすわった。
 切っても巻いてもすぐに元に戻ってしまうので、シエラは太ももまでかかる長い髪を下ろしたままでいることが多い。ただ、どういうわけか、時折ふらりとカスミの許に来ては、やれ髪を梳けだの編めだの言ってくる。ビクトールからは、適当にあしらっておけよと言われたが、カスミは喜んでシエラの髪結い係を仰せつかっていた。
 シエラの長い髪を、柔らかい毛のブラシでカスミは丁寧に梳いていく。
「今日はお早いんですね」
 早、夕方になろうかという時刻だが、吸血鬼であるシエラにとっては充分に早い時間である。
「あぁ、“生死を統べる者”がとんでもない穢れを浴びてやって来たのでな。叩き起こされたようなものじゃ」
 露骨に顔をしかめて、シエラは唸った。
「ルキア様がいらしたんですか?」
「うむ。じゃが、今日は会うのは諦めたが良いぞ。風使いが祓っておったが、かなりきつそうだったゆえ」
「ルックさんがついているなら大丈夫ですね。……でも、穢れなんて一体、何処で……?」
「さてな。それについては、頑として口を割る気はなさそうだったの」
「そうですか……」
 それでも、会いに行けないと思っていたカスミには、ルキアが此処にいるというだけで嬉しい。ふと聞こえた吐息のような笑い声に、シエラは呆れたように言った。
「おんし、もう少し我を通しても良いのではないかえ?」
 カスミは苦笑する。
「永遠をくださいましたので、他はなにも望みません」
「……あの気の多さでは、どれだけわがままを言ったところで釣りがくると思うがの」
「そうでしょうか?」
「そうじゃとも」
 少女たちは顔を見あわせて笑った。
 白銀の髪を綺麗に編み終えて、カスミは椅子の位置を戻した。空には真白の月がかかっていた。
 白い月、白い少女、紅い薔薇。
「……シエラ様を見ていたら、古い詩を思い出しました」
「ほぉ、聞こう」
 カスミは少し目を伏せて呼吸を整えると、よく通る声音を響かせた。
野路(のぢ)の果(はて)、遠樹(ゑんじゅ)の上、
 空澄みて昼の月かかる。
 あざやかに且(か)つは仄(ほの)か
 消(け)ぬがに、しかも厳(おごそ)か。
 見かへればわが心の青空、
 おお、初恋の記憶かかる。


 すでに自分専用になっている客室で、うとうとと微睡んでいたルキアはゆっくりと目をあけた。
「詩が……」
「ルキア……?」
 枕許にすわっていたルックが首を傾げる。
「カスミが、詠ってる……」
 ルキアがゆっくりと言葉を紡いだので、ルックは風を喚んだ。
 風に乗って窓から、きれいな声が聞こえてきた。
 ほぉと吐息が零れて、ルキアの瞼がゆっくりと落ちていく。まもなくして、規則正しい寝息が聞こえてきた。
 寝つくまで側にいて、と駄々をこねられていたルックは、ようやく眠りに落ちたルキアを見て安堵の息を吐いた。ずっとつらそうな息遣いをしていたが、それも落ち着いてきたらしい。カスミの歌声の力か。
「……ルキア?」
 ルキアの閉じた目から、涙が零れ落ちていった。
 ルックはそっとささやく。
「君は永遠を手に入れたのに、なにを悲しむのさ……?」
 ルックは起こさないように気をつけながら、涙を拭いた。ルキアが起きたときに、自分が泣いていたことに気づかないように、袖口できれいに拭った。
 窓を閉めて、ルックは部屋を出ていった。

 しばし、カスミの声の余韻に浸っていたシエラは、やがて目を開けて拍手をした。
「見事」
「ありがとうございます」
 カスミは軽く頭を下げた。
「『初恋の記憶』か………。わらわは、おんしの記憶を呼び覚ましたかえ?」
「………いまの詩を教えてくれたのが、初恋の人です」
 面映ゆそうにカスミは笑った。
「……誰じゃ?」
「同じ里の忍びの方でした」
 過去形に、シエラはわずかに目を細めた。カスミは気にすることなく、言葉を続ける。
「生まれついて目が見えなかったのですが、その実力は誰もが一目置いていて、とくに幼い忍びたちには憧れの的でした。私の声を愛してくださり、妹のように可愛がっていただきました。私も歳の離れた兄のように思って、懐いていたものです。……いま思えば、それが初恋だったのかな、と………」
「……その者、いまは?」
「亡くなりました。先の戦争で、私をかばって……。………怒りと憎しみで我を忘れて、この声で人を殺めたのは、あとにも先にもあの時だけです……」
 カスミは淡々と語った。
 感情を制御するのが忍びといえども、ただの思い出話にするには、かなりの努力を要したことだろう。
「……忍びとは、なんと面白みのない生き物よ。感情を殺しては、石塊(いしくれ)と同じではないか」
 シエラが嘆息して言うと、カスミは少し困ったように笑った。
「………それが、忍びですから………」
「忍びである前に、一人の女であろ。おんしの記憶は、なに一つ風化しておらぬではないか」
 物の見事に一刀両断されても、カスミの表情は変わることがなかった。
「もちろん、忘れてなどいません。……里を焼いた炎の熱さも、返り血の生々しさも、彼の最期の重みも、いまでもはっきりと思い出せます……。でも、私は忍びであることを誇りにも思っています。泣きたければ、一人で泣きます。それに、ルキア様に言われました」
 花のように、カスミは笑う。
「私の前でだけ女で在ってくれれば良い、と………」
 シエラはげんなりしたように、椅子の背に深くもたれた。
「野暮を訊いた」
「こちらこそ、失礼いたしました」
 カスミはどんどん綺麗になっていく、と言っていたのは誰だったか。穏やかに笑うカスミを見つめて、シエラは思った。見た目ではなく、内から光り輝く美しさ。
(……ほんに、あの男には勿体ないくらいじゃ………)
 諦めたように軽く息を吐く。
「おんしに惚気られるとはの……」
「では、シエラ様の惚気も聞かせてくださいな」
 思わず、言葉に詰まるシエラ。
「………おんし、言うようになったの」
「あ、すみません……。もし良ければ、シエラ様の初恋の話も聞いてみたかったので………」
「ふむ………。おんしにばかり惚気られるのも、割にあわぬか。……では、とっておきを披露してやろう」
「はい」
「わらわの『初恋の記憶』はこの詩じゃ」
 シエラは、真白の月に詠う。
今宵 月は ひとしお物憂げに夢みている
 積み重ねた数々のクッションの上に横たわり
 眠りに入る前に 放心の軽やかな手で
 二つの乳房のふくらみを愛撫している美人のように

 柔らかいなだれと見紛う繻子(しゅす)の肌の背を下にして
 仰向けになり 月は息も絶え絶えに
 咲き誇る花々のように蒼空の中に昇ってくる
 真白い幻影を うっとりと眺めている

 やるせない手持ちぶさたのつれづれに 時おりは
 地球の上にひとしずく涙の露をひそかに零すと
 睡眠を敵とみなす敬虔な一人の詩人は

 その手のくぼみに 猫眼石(オパール)の欠片のように虹色に
 きらめきわたる青白い月の涙を受けとめて
 太陽の目の届かない胸の底にしまいこむのだ

 異国の詩に、カスミはうっとりと溜め息を零した。
「素敵ですね」
「当然じゃ。わらわのとっておきぞ」
 少し自慢げに答え、そして、シエラは目を伏せた。
「初恋の君が、わらわに作ってくれた詩じゃ………。意外に、わらわも未練がましいの。まだ人であった頃のことを覚えておるとは………」
 ゆるゆると、カスミは首を振る。
「それは、未練ではありませんでしょう。なにものにも代え難い、大切な思い出です」
「わかっておる」
 ムッと言い返せば、カスミは謝罪した。
「差し出がましいことを申しました」
「…………。いや、わらわから話したことじゃ。おんしにあたることではなかった……。………なにせ、否が応にも思い出させる状況にあってな………」
「もしかして、それは、
クラウスさんのせいですか?
 カスミが少し声を潜めて一人の名前を挙げると、シエラは苦笑した。
「当たりじゃ」
 気遣わしげな表情になったカスミの額を、シエラは華奢な指先で弾いた。小さく悲鳴を上げて、カスミは両手で額を押さえる。
「おんしのようなヒヨッコに心配される謂われはないぞ。生命(いのち)の輪が廻るなら、こういうこともあるであろ。むしろ、わらわは楽しんでおる」
「楽しむ……」
 額をさすりながら、カスミは茫然と呟く。
 いつか、必ず訪れるその時。果たして、自分はそんな心境になれるだろうか。
「ま、今世が無理でも、あ奴が飽きもせぬ限り廻り続ける輪のいつか、わらわの気持ちもわかる」
 シエラは少し間を置き、やはり付け足しておくことにする。
「かも知れぬの」
「………頑張ります」
 優しく見守るように、シエラは笑う。
「いま一度、あの詩を聴かせておくれ。遙か昔の恋の、手向けとしよう………」
「仰せのままに」
 目礼して、カスミは詩を紡いだ。

 美しい声音は、薔薇の香に乗り、甘く切なく、胸に響く。
END