君いない夜は・・・




 夜も更けてきた人通りの絶えた広いホールを、風が惑うように吹き乱れていった。いつもなら酒場の行き来でまだそれなりに賑わしい時間帯のはずだが、今日は早くから静けさが支配した。
 グリンヒルをからくも奪還し、そのほとぼりが冷め切らぬうちに、明日はいよいよミューズへの遠征が始まるのである。
 石版にもたれていたルックは、煩げに風を払った。
 ざわざわと風の落ち着かないこんな夜は、彼女が歌っているからに他ならない。
 あんなことがあったあとくらい、しばらくあいつと一緒にいれば良いのに、任務に忠実な彼女はグレッグミンスターからとんぼ返りで戻ってきた。
 それとも………。
 もう一つ、別な理由に思い至ったルックは、忌々しげに舌打ちをして、身体を起こした。
「あのバカ、まさか……!」
 騒ぐ風をなだめすかして、屋上へ運ばせる。いつものパターンなら、ホットワインの入ったマグカップを片手に、彼女は屋上にいるはずだ。
 屋上から、さらに上へと登れる梯子の先。ルックが屋根の上に現れたとき、歌声は止んだ。
「こんばんは、ルックさん」
 少し呂律のまわらない声が、ルックを出迎える。眦をつり上げて声の方向へ顔を向ければ、フェザーの翼にくるまるようにしてカスミがすわっていた。
 意外にも上機嫌な様子は、酔いのせいでしか有り得ない。まるで誰かを彷彿とさせるその能天気な笑顔に、ルックは盛大に溜め息を吐いて脱力してしまった。
「どうかしました……?」
「……呂律のまわってない声で誰かが歌うから、風が煩くってしょうがなかったんだよ」
 精一杯の刺々しい言葉も。
「あら、すみません」
 本当にそう思っているのか、かなり疑わしい言葉に粉砕された。
 ルックはカスミの隣りに腰を下ろした。
 口を開けば毒舌しか出てこないと思われているルックだが、カスミと話すことは苦痛ではなかった。カスミは必要なことしか言葉にしないから。それなりに理由があってのことだが、それがルックにはちょうど良いのである。
 レオナの最後通告であるホットワインを持ったカスミと話すのも、これが初めてではない。こんな彼女を見られるのは、自分とあいつくらいなものだろう、と思う。
(もっとも、あいつは僕にだって、カスミの酔ったところを見られたくないんだろうけど)
 だが、仕方ない。酔ったカスミの言葉は、“風”を籠絡するのだから。“風”に泣きつかれて、ルックはカスミを止めに行くのである。
「こんなところで歌ってるくらいなら、もっとゆっくりして来れば良かったんじゃないの。明日の遠征だって、留守番役なんだろ」
 何処でという言葉が抜けていたが、それがわからないほど、カスミも酔っているわけではなかった。
「大統領から返書を預かりましたので」
「よく、あいつが手放したね」
「私の務めを邪魔されたことは、一度だってないですよ」
 まだ湯気の立ち上るホットワインを一口飲んで、カスミはほぅと白い息を吐き出した。
「……それに、行ってしまわれました」
 予想が的中して、またルックは舌打ちした。
「何処へ?」
 行き先を告げた試しもなかったな、と思いながら、そう訊かずにはおれない。案の定、カスミはゆるゆると首を横に振った。
「それほど長く出かけるつもりはないけれど、と言い置かれただけです」
「そう……」
 日ごとに冷たくなってきた風が吹きぬけた。
 カスミの唇から、また、音が零れてきた。
 メロディラインをなぞる声に耳を傾けていたルックは、抱えた膝の上に載せていた顔をカスミに向けた。
「………ねぇ、訊いたことあったっけ……?」
「なにをですか?」
「ルキアの何処がそんなに好きなのかって」
「……ルックさんに訊かれたのは、初めてのような気がします……」
「それで……?」
「何処と訊かれても………すべてと答えるしかないですよ」
 胡乱げにルックは目を細めた。
「子供みたいにわがままなのに……?」
「えぇ。……風のように気まぐれでも」
 クスクスと悪戯っぽく笑いながら、カスミは付け加えた。
「傲岸不遜、傍若無人」
「無敵の甘えん坊」
「来る者拒まず」
「去る者追わず」
「誰にでも愛をねだるくせに、自分からは決して想いを注いだりしなくて」
「誰よりも慈しむことを知っているのに、手放すときの潔さは、いっそ残酷なほど……」
 溜め息を吐いたのは、果たしてどちらであったか。
「それでも、好きなんだ」
「そこも、好きなんです。ルックさんだって、そうじゃないですか……?」
「べつに……」
 いつにも増して突っぱねた言い方は、図星を衝かれたかららしかった。
「………僕が来る前、なにを歌ってたんだい……?」
「恋の詩です。愛おしい人の消息を尋ねる詩を……」
本気で詠ったね……?」
「…………」
 にこりと微笑むだけのカスミに、ルックは盛大に溜め息を吐いた。
 道理で、風の騒ぎようが尋常ではなかったわけである。
「…………。詠ってよ、それ」
「……良いんですか?」
「ルキアの歌を独り占めした代わりに」
 カスミははにかんだ笑顔を見せた。ホットワインの残りを飲み干して、冴えた空気を吸いこむ。
 寝静まろうとする城に配慮して、夜気に溶けこむような声だったが、それでもカスミの楽の音のような声を堪能するには充分だった。

相見時難別亦難
(なかなか逢えないのだから、逢えば別れるのがつらくてならない)
 東風無力百花残
(この気持ちを映すように、春風は気怠く吹き、花も散り乱れてしまった)
 春蚕到死糸方尽
(蚕が死ぬまで糸を吐き続けるように、)
 蝋炬成灰涙始乾
(蝋燭が燃え尽きるまで涙を流し続けるように、あの人への焦がれる想いも、この身、果てるまで尽きはしない)
 暁鏡但愁雲鬢改
(私は朝ごとに、鏡を見ては容色の衰えを嘆いているけれど、)
 夜吟応覚月光寒
(あの人は夜ごと、眠れぬままに冷たい月光の許で詩を口ずさんでいるのではなくて)
 蓬山此去無多路
(あの人の住む蓬莱の山は、ここから遠くはないというのに……)
 青鳥殷勤為探看
(西王母の使いの青い鳥よ、どうかあの人の消息を探して)


 やがて、淡く光る青い鳥が二人の許へ舞い降りた。
END