守り人の災難



 たとえば、風の吹き渡る草原で。木もれ日の優しい森の中で。真っ青な水平線と白い波飛沫を眺める砂浜で。さやけき月の光に彩られた夜の丘で。ふと、思い出すように愛しさがあふれることがある。
 右手の紋章はそのたびに疼き、鎌を振り上げて求める対象のない虚空を切り裂いた。その点については、守り人が紋章よりもずっと上手だった。三百年も生きていれば、いやでも学習する。
 ただ、今回はどうにも抑えが効かなかった。守り人ですら、待ち望んでいた相手が無防備に穏やかな寝顔をさらしていては。
「愛してるよ、ルキア………」
 たまさかに泊まるルキアの部屋で、ふと零れたものは万感の想いをこめた告白となった。すぐさま反応する紋章に、しまったなと思う反面、心の奥底で最悪の事態にはならないことを知っている冷静な自分がいるのも自覚する。
 どうしてそうはならなかったのか、テッドは身を以て思い知る羽目になった。
「っ痛……!」
 右手に走った激痛に意識が奪われて、紋章は輝きを失った。ルキアを起こさないように、歯を食いしばって声がもれるのを堪える。パキリ、と乾いた音が聞こえた気がした。
「………なんなんだ、これ……」
 右手を抱えこんで、紋章に圧力を加えた物の正体を探る。暗い室内で、ほんやりと光る物がこちらを見ていた。
「……!?」
 目を凝らしてみれば、サイドテーブルから白金と黄金の蛇がこちらを睨んでいる。それが、ルキアが首から提げているメダルを象る二匹の蛇だと理解するのに手間取った。確か、母の形見だと言っていただろうか。
 右手の紋章の哮り狂うような怒りがわかる。だが、テッドはその感情と己を綺麗に分断する術を知っている。痛みはどうしようもなかったが。
 冷静に自分を見つめる四つの光。
 その醒めた空気をテッドは何処かで知っていた。
(何処かで……?)
 鎌首をもたげた蛇たちの瞳がギラリと光って、思考を一時中断させる。
(ま、待て待て……! 俺は退散するから!)
 無事な左手を突き出して声を出さずに訴えれば、蛇はまた静かにテッドを見つめるのみ。
 あとでどうやって言い訳するか、と考えながら、テッドはある場所を思い浮かべる。いまの自分が頼れるのはそこしかない。
 右手の痛みに耐えながら転移術を使うのは非常に困難だったが、死ぬよりはマシだった。

 等間隔に灯された街灯に浮かぶ一軒の店。そのドアをテッドは控え目に叩いた。
「俺、テッドだ。ジーンさん、頼む、助けてくれないか?」
 店の中に向かってそう呼びかけてしばらく待っていると、鍵を開ける音がして、続いてドアも開いた。
「お入りなさいな」
 薄ぼんやりと光る妖艶な美女が立っていた。
 小さな部屋に似合いの丸テーブルに向かいあってすわって、ジーンはテッドの右手を診ていた。
「皮も肉も血管も神経も綺麗なままなのに、骨だけ斬られているわ」
「おかげで尋常なく痛い………」
「そうでしょうね」
「治していただけるとありがたいんですが」
 おずおずと切り出せば、妖艶な笑みが返る。
「高くついてよ」
「……身体で払います」
「あら、殊勝な心がけね」
 ますます深くなった笑みでずいと近づかれて、テッドは上半身を仰け反らせた。
 本当は身体ごと壁に張りつきたいくらいに逃げたかったが、右手を取られたままではいかんともしがたい。
「そ、そういう意味じゃなくて……!」
「冗談よ」
 面白そうに目を細めてジーンはすわり直した。
「……笑えないって………」
「あの子は笑ってくれると思うけれど」
「あいつは据膳はとりあえず喰えって教育されてるから、冗談にもしない気がする」
「そうかしら?」
 テッドは大きく頷いた。
「まぁ、別にそれでもちっとも構わないけれど……」
 遠くない未来を想って、ジーンはうっとりと微笑んだ。
「……そんなに気に入った?」
「えぇ」
 いつの間にか左手に“流水の紋章球”を持ち、右手をテッドの右手に重ねながら、ジーンは答えた。
 邪魔はすまい、とテッドは口をつぐむ。
 紋章を宿すときのように、ジーンは少し目を伏せてなにごとか呟いた。淡く紋章球が光り水の波動がテッドの右手へと注がれていくと、痛みは引き潮のように遠ざかる。
「本当はこんな使い方は反則なのだけど………」
 紋章でなにもかもが簡単に癒せるわけではない。左手にあった紋章球はいつの間にか輝きを失い、無残にヒビ割れていた。尋常ならざる使い方の結果だ。
「ツケはあなたにではなく、“ソウルイーター”につけておくわ」
 テッドは思わず右手の紋章を見つめた。
「その怪我はあなたのせいではなく、紋章のせいなのでしょう?」
 気難しいそれは意外にも沈黙したまま。
「まぁな……」
「ルキアには絶対防御の守りがついている」
「知ってたのか!?」
「いつも不思議な気配をまといつかせているもの。………あなたの血の匂いに似ているわ」
 まったく気づいていなかった自分の迂闊さに呆れる。あの蛇たちに睨まれて、その気配に覚えがあった。あれは、記憶の彼方にあった故郷の空気を思い出させたのだ。
 一族の中で、山奥深くに隠れ住むことを選んだ者たちと、流れ流れて此処へ辿りついた者。そんな廻りあわせもあるのだろうか。これほどの時が流れてしまえば。
「“ソウルイーター”の呪いさえ跳ね返せるとは思わなかったけれど……」
「あぁ……」
「あの子は、呪いから解放されるのかも知れないわね」
「それはどうかな………。あれらは、持ち主を守ることしか考えてなかった。こいつがルキアのものとなったら、こいつが食い散らかすことだって傍観しているだけだろう」
「でも、あの伝言は、そうあなたに伝えていたでしょう?」
「…………」
 テッドは不機嫌そうに押し黙った。
「あの絶対防御が、呪いからの解放をもたらしてくれるものではなくても、ね」
 身を乗り出してジーンはテッドの顔を覗きこんだ。
「迷っているの?」
「………当たり前だろ。こんなものを親友に押しつけるなんて、できるかよ……」
「でも、それはあの子を望んでいる。あなたはそれの望みを叶えるのが役目。そして、あの子は託されるのを待っているわ」
「まだだ!」
 声を荒げて反論しても、ジーンは静かに見つめ返すだけだった。項垂れて、テッドは両手で顔を覆う。
「………まだ、あいつはなにも知らなくて良いんだ…………」
「……そうね」
 ジーンは逆らわずに頷いた。
「毛布を持ってくるわ。泊まっていきなさいな」
「………ありがとう、恩に着る」
「どういたしまして」
 部屋を出るジーンを見送って、テッドは長椅子へ移動した。横になりながら、右手の紋章を見つめる。
(本当に、これを、あいつに託すときが来るのか……?)
 来なければ良い、と心の底から願う。それが、時間の流れを歪ませることになろうとも。
 右手を投げ出して、テッドは目を閉じた。骨を無理矢理治した反動で、すぐに眠気がやってきた。ジーンが毛布をかけてくれたことにも気づかないくらい、テッドは深い眠りに落ちていた。
END