あわいの華



 重体の身体を押して、マッシュはグレッグミンスターへの行軍についてきた。
 ルキアとて、絶対安静だと言うリュウカンの言葉に従いたかった。解放軍の士気に関わるとマッシュは言ったが、そんなことくらいで士気が下がるような柔な軍にしたつもりはない、と叫びたかった。
 だが、そうできなかったのは、やはり何処かで悟っていたのかも知れない。マッシュの命が尽きようとしていることを。だから、見せてやりたかった。自分の寿命を縮めてまで付き合ってくれる彼に、この国が解放された瞬間をどうしても見せてやりたくなったのだ。
 行軍中、マッシュはルキアの天幕に寝かしつけられていた。お前の怪我の具合が全軍の士気に関わると言うなら、いつまでも救護用天幕にいるのも問題だろう、とルキアが嫌味を言えば、マッシュは力無く笑うしかない。マッシュのベッドや治療に必要な物をすべて持ちこんだとしても、ルキアの天幕は充分に広い。それに、ルキアが自分のベッドを使わず、マッシュの隣に潜りこんで寝るので、根負けしたマッシュがルキアのベッドを使うようになってからは、小さなベッドも片づけられてしまった。
 リュウカンに足労をかけるのは申し訳なかったが、治療の手順をルキアが覚えてしまってからは日に一度だけ様子を見に来るだけになった。最早、手の施しようがなかったのだ。ただ、マッシュの容態は安定していた。リュウカンが疑問に思うくらいには。
 いよいよ、明日はグレッグミンスターへと進軍することになった夜。リュウカンは診察を終えて、暗い表情のままルキアの天幕をあとにした。浅い呼吸を繰り返すマッシュは、不思議なくらいに安定していたこれまでとは一変して、容態を悪化させていた。しかし、もう自分にできることはなにもない。リュウカンは、いま生きていることさえ不思議な状態なのだ、と同じことを繰り返し自分の天幕へと帰るしかなかった。
 ルキアはいつものように、マッシュの傷に触れないよう横に寝そべった。
「マッシュ………」
 肘をついて身体を少し起こした状態で名を呼ぶと、マッシュはほんの少し顔をこちらに向けた。
「………私は、大丈夫ですから………」
 聞いたこともないくらい弱々しい声に、ルキアは苦しげに顔を歪めた。そっと頬に触れれば、優しい笑みが返される。ルキアは体重をかけないように気をつけながら、マッシュに深く口づけた。
 抵抗することもできず、マッシュはただそれを受け入れるのみ。傷を負っていなかったとて、抵抗はしなかっただろうな、と頭の片隅で思う。ずっとずっと、焦がれ続けていたのだから。
 ようやく解放されて、マッシュは想いとは裏腹にしかめ面でルキアを見上げた。
「……ルキ、ア殿、なにを……?」
「身体、楽になったか?」
 訊かれて、呼吸するのもつらかったのが嘘のように楽になっていることに気づく。
「………気功法ですか」
「うん」
 それで、自分でも不思議だった疑問が一つ氷解する。
「…………もしかして、行軍中、ずっと……?」
「うん。口移しで実行したのは、これが初めてだけど」
「いままでの、やり方で良かったのでは?」
「生命力を高めるには、性欲に火をつけるのが一等、手っ取り早いんだよ」
「そうかも、知れませんが……」
「なに、俺のキスじゃ不満?」
「まさか」
 ルキアは目を瞠ってマッシュを見つめた。
「…………そこで、否定の答えが返ってくるとは思わなかった」
「自分でも、意外でしたよ」
 マッシュは苦笑を返す。生涯、この想いを打ち明けまいと決めていたのに。ほろりと零れ出てしまった本音。久しぶりにルキアは笑顔を見せた。
「やっと、お前の気持ちが聞けた」
 そうして、甘やかにねだる。
「………もっとして良い?」
「して、ください」
 角度を変えて。ついばむように。蹂躙するように。ルキアはマッシュに口づけた。
 満足して、ルキアはマッシュに身体をすりよせた。マッシュは大きく息を吐き出して呟く。
「ふたを、してたのですけどね」
「ん、わかってた」
「最期の最期で、思い知らされるとは……」
「最期なんて、言うな……!」
 再び顔を上げたルキアはいまにも泣きそうな表情だったが、それすらも愛おしくマッシュは薄く微笑んだ。
「いまは、あなたに喰われたい気分です」
「マッシュ………」
「それくらい、幸せです」
「俺を抱いてくれたら喰らってやる」
「では、この傷は、なにがなんでも、治さなければなりませんね」
「…………。治せ、絶対に」
「…………。明日の、あなたの凱旋を、お待ちしています。…………ずっと………」
 互いに命令も望みも口にはするが、約束をねだることも誓うこともできなかった。ルキアもマッシュも、嘘だけは吐きたくなかったのだ。
 翌朝、マッシュはいつものようにご武運をとルキアを送り出し、ルキアはリュウカンがいるのも気にせずマッシュの額にキスを落として天幕をあとにした。
 颯爽と光へと歩き出す主君の背中を、涙混じりにマッシュは見送った。
(あぁ、あなたに会えて、私は、幸せでした………)

 ルキアがマッシュの許へ戻ってこれたのは、夜も更けた頃だった。
「おかえりなさいませ、ルキア様……」
 深く頭を下げて、リュウカンはルキアを迎えた。仄かなランプに照らされて、死に装束をまとったマッシュが横たわっていた。
「………マッシュは、勝利の知らせを、聞けたか?」
 遺体の前に立つルキアの表情からも声音からも、なんの感情も読み取れない。
「はい。確と聞き届けて、眠るように………」
 淡々とリュウカンも受け応えた。
「そうか………。ご苦労だった、戻って休め」
「………はい、失礼いたします………」
 静かにリュウカンは天幕を退出した。
 近くに人の気配を感じなくなってようやく、ルキアはマッシュの冷たい頬に触れた。
 とてもとても穏やかな顔だった。こんなに冷たくなければ、眠っているのかと思うほどに。
「…………俺に、喰らって欲しかったんじゃ、ないのか……?」
 震える声。ぱたりぱたりと熱い雫がマッシュの顔に落ちる。
 滲む視界の端を、ゆっくりと青白い光が過ぎった。
「……!」
 顔を上げると、ふわふわとたゆたう青白い人魂があった。
「……マッシュ……?」
『お待ちしています、と言ったでしょう?』
 それは、あっという間の出来事だった。
 右手から真っ暗な闇が爆発的な勢いで広がって、ルキアが瞬くとそこはもう自分の天幕ではなかった。
 地面には発光する色とりどりの花々が、見渡す限りに広がっている。上を見上げれば、ただ闇。
「………此処は………」
 茫然とルキアが呟くと、カサリと花を踏む音が聞こえた。反射的に振り向いた視界に飛びこんだのは、生前と変わらぬマッシュの姿。かつての何処か一線を引いていたしかめ面しい表情ではなく、穏やかな微笑を浮かべてルキアを見つめていた。
「此処は、彼岸と此岸の狭間ですよ」
「マッシュ…………」
 かすれた声でルキアが呼ぶと、マッシュはますます笑みを深めた。
「もう敬称をつけずに呼んでも……?」
 くしゃくしゃと顔を歪ませて、ルキアは頷いた。
「お疲れ様でした、ルキア」
「………俺は、お前の期待に、応えられたか?」
「えぇ、もちろん。それだけでもあなたに伝えたくて、ずっと待っていました。まさか、“ソウルイーター”がこんな温情を見せてくれるとは思っていませんでしたが………」
 あたりを見まわしたあと、マッシュはルキアに向かって軽く肩をすくめる。
「さらに美味しくいただこう、ということでしょうか」
 ルキアはそんなことはもうどうでも良い、と力無く首を振った。それがわかったのか、マッシュは両手を広げてもう一度言った。
「待っていました、ルキア」
「マッシュ……!」
 ルキアはマッシュの腕の中に飛びこんだ。
 花を散らし、吐息を零し、耳許に甘やかにささやき、指先をすべらせ、二人は最初で最期の逢瀬を果たした。

 ルキアはマッシュの遺体の前に立っていた。ふわふわと手のひらに余るほどあった人魂は、凝縮されたように真珠ほどの大きさになっていた。差し出された手のひらにことりと落ちる。愛おしそうに見つめて、ルキアはそれを飲みこんだ。
 それは、喉をすべり落ちると同時に、身体中を隅々まで癒していく。
「………あぁ、確かに……。これは、病みつきになる味だな」
 完爾と笑い、ルキアは天幕を出て行った。
 最早、此処に、思い残すことはなに一つなくなったのだ。
END